
下記『◆プロローグ◆』にて、【】で囲われた用語は、『俺の嫁とそそらそら』独自の用語です。 『基本情報』ページ『●用語解説●』欄にごく簡単な註釈があります。あわせてご覧ください。 また、さらに『俺の嫁とそそらそら』の世界観が知りたい! という場合には、『●ワールドガイド●』をご確認ください! |
◆ガウラス・ガウリール地下室のドアが、蝶番(ちょうつがい)をきしませながら開く。 メデナ議長【ルビー・トロメイア】は部屋に入るなり、レース地のハンカチで口元を押さえた。 室内は、空気に色が付いているのではないかと錯覚するほどの臭気に満ちている。 錆びた鉄のような血と、腐った柑橘類のような汗の匂いがした。うっすらとだが、肉が焦げたような匂いも。 狭い部屋だ。八人も入ればたちまち酸欠になってしまうだろう。窓には鉄格子、打ちっ放しの壁にコンクリートの床、部屋の中央には引き出しのない四脚テーブル。硬いスチール椅子はふたつあるが、ひとつは横倒しになっている。 トロメイアの足元、部屋にいる唯一の男は、その倒れた椅子の隣に横臥していた。足首は縄で縛り合わされ、重罪犯用の太い手錠まで填められている。これでは容易に起き上がれまい。といっても、起きるだけの体力が残されていればの話だが。 軍服は原形をとどめないほどに裂け、同じくボロボロのワイシャツは血と汗で赤黒く染まっていた。トレードマークである遮光ゴーグルもつけていない。 紫に腫れ上がった瞼を片方だけ細く開け、【ガウラス・ガウリール】特佐は甲冑の少女を見ている。 全身を、中世騎士のような甲冑にかためた幼子が踊っているのだ。四歳くらいだろうか。顔は見えず、覆いを上げた兜から大きな垂れ目だけがのぞいている。甲冑の隙間から、亜麻色の長い髪がさらさらと揺れていた。 実際のところこの幼子は、踊っているのではなかった。トロメイアの来訪に気がつき、文字通り右往左往していたのである。 「とくさ(特佐)、しっかりして……! あのひとがきたよ」 少女はカチャカチャと甲冑を鳴らしてしゃがんだ。手甲(ガントレット)をはめた手でガウリールの頬を叩こうとするのだが、手は老将の頬を素通りするばかりだ。彼女は【X2(エックス・ツー)】、ガウリールのアニマである。 わかっている、とX2に告げて、 「……娘のほうのトロメイア、か」 起き抜けの老犬のごとく、大儀そうにガウリールは言った。首を向けることすらしない。正しくは、できない。 「娘のほう、ではございません。『議長』とお呼び下さいな」 ルビー・トロメイアはヒールを鳴らして特佐に近づく。通せんぼするようにX2が両腕を広げ遮るも、トロメイアはあっさりとこれをすり抜けた。 「X2、席を外してくれ」 掠れた声でガウリールが告げると、X2は名残惜しそうな眼差しで姿を消した。 「生ぬるいな」 ガウリールはここで、はじめて眼球をトロメイアに向ける。 「第二次旅団間戦争のおり、捕虜となった私が受けた拷問はこんな程度ではなかったぞ」 ぺっ、と粘つく血の唾を吐いてガウリールは続けた。 「これが貴公の限界だ、トロメイアの娘」 トロメイアの美しい眉が瞬時、飛蝗(バッタ)の脚のように跳ねた。 しかし彼女は黙って息を吸うと、微笑みすら浮かべ声の調子をやわらげたのである。 「いい知らせを持って参りました、特佐」 ガウリールは相槌を打たない。それでも、トロメイアは調子を崩さず話し続ける。 「旅団ミルティアイの爆破作戦は成功しました。【ヘブンリー・ロック・フェスティバル】の観客ごと、木っ端微塵となりアビスに墜ちております。これをきっかけに勃発した旅団間の抗争、および各地域の内乱は、第『三』次旅団間戦争に発展しそうな勢いですわ」 「……フェスティバルから何日も空いたな。機が熟すまで私に知らせるのを待った、というつもりか」 「お察しの通りです」 それで、とトロメイアは言う。ガウリールの目を見て、 「この混沌状態を、一時的にでも収束できる人が必要になりました。というのも、上昇を再開したアビスの進行速度が予想以上のものでしたから。……軍を掌握してほしいのです。それができるのは特佐、あなたしかいないでしょう」 ガウリールは口元を歪めた。これが彼なりの『笑み』である。 「そうか、ミルティアイの爆破は失敗したか」 「なにをおっしゃいます。私の言っていることを聞いて……」 ガウリールはトロメイアの発言を無視した。 「今まで黙っていたが、私には人間の心音を聞いて真偽を読むという特技があってな。トロメイア、貴公の今の心音、嘘をついている音だ」 動揺すまい、としている内心がすでに、トロメイアの顔に出ている。 こらえきれなくなったのか、とうとうガウリールは声を立てて笑い出した。 「ミルティアイの爆破は失敗、それでも内戦状態を導くくらいは成功したものの、決定的なダメージがなかったため思った以上に各旅団軍に力が残っており【無何有郷(ユートピア)計画】の遂行に困難を生じている。ゆえにこの私を駆りだし、一気に軍権を掌握しようという魂胆か……浅い。実に浅い」 「また来ます!」 哄笑に追い立てられるように、トロメイアはきびすを返すと靴音高く部屋を出て行った。 鉄扉が閉じる。 錠前が下りた。 「とくさ」 ひょい、と甲冑娘のX2が再度出現した。 「しんぞうの音をきくって……とくさ、そんなとくぎあったんだね、すごいね!」 「X2、貴公、何年私のアニマをやっている」 あれはハッタリだ、と特佐は告げる。推理が的中したに過ぎない。 しかし、と目を閉じると、ガウリールは短く呟いた。 「……ニコラスが、死んだか」 無何有郷計画を探究者に明かし、ミルティアイ爆破を防いだ者がいるとすればそれは、自己の副官【ニコラス】だろうとガウリールは予想する。ニコラスがそのアニマ【リリーマルレーン】に通信させたというのが、一番ありえる話だろう。 だがトロメイアが、裏切り者を許すはずがない。 ガウリールは懸命に努力して、なんとかうつ伏せの姿勢になった。 そうして暫く、そのままでいた。 ◆リン・ワーズワース気がついたとき、リンは冷たく、柔らかなものにくるまれている自分を感じた。 寂しい。とても、寂しい。 水中に浮いているような気がする。 ――頬の傷。 はっとして頬に手で触れようとした。けれどその右手がない。 それどころか【リン・ワーズワース】は、自己に肉体がないことに気がついた。 視界は闇。 闇しか、ない。 闇と一体化しているのだ。いやむしろ、闇そのものになったというべきか。 流せる涙はもうないが、リン・ワーズワースはそれでも泣いた。 そうか、私……。 アビスに喰われたんだ。 あれほど畏れていたというのに、いざそのときが訪れてみると、不思議に落ち着いた気分だった。 それにしても、寂しい。 いくら呼びかけても、アニマ【オリヒメ】の声は聞こえない。 寂しい。とても、寂しい。 自分は世界で一番、孤独なのだと思う。こんな暗い場所で、アニマも奪われ独りきりで。 「寂しいよぉ……」 それはリンの声なのだろうか。 それとも、アビスそのものの声なのだろうか。 薄曇りの白い空、それが突然、リン・ワーズワースの上に開けた。 リンは浮き上がる。 羊の頭部(【シープヘッド】)に光が当たる。 まぶしい――。 リンは目をすがめた。ざっくりと刻まれた頬の傷に、光の粒子が沁みるように思う。 右腕を伸ばす。今度は存在している。 といっても、手首から先はないのだけれど。 しかも色も真っ黒で、闇そのものであったのだけれど。 しかしそんなものを気にするゆとりは、今のリンにはない。 「寂しいよぉ……」 みんなどこに行ってしまったのか。 目を凝らす。骨色の空の彼方に、小さく見える浮遊物がある。 旅団だ。たぶん、レーヴァテイン。リンの故郷である。 「待って」 アビスは、 シープヘッドは、 リン・ワーズワースは、 そこを目指すことにした。 「私を、置いていかないで」 寂しい。とても、寂しい。 ◇ ◇ ◇ アビスの表面にふたたび、巨大な黒い羊の頭部が現れた。 しかも今回はそれにとどまらない。 アビスに沈んでいた部分、すなわち、羊の肉体が出てきたのである。 動物のそれではない。人間の女性、その上半身に似ていた。 右腕は、手首から先が存在しない。 アビス領域でシープヘッドを目撃した者であれば、その頬に新たに、深い傷痕が生じていることに気がつくかもしれない。 ◆フラジャイルのマリア「博士、博士……!」 この世界、千年が経過したという飛空時代に、【フラジャイルのマリア】は望んで来たわけではなかった。ずっと眠っていたかったのに、まったく知らない異世界にて、無理矢理揺り起こされたような印象がある。 それでも、マリアはこの世界で目覚めたことを後悔していない。 むしろ感謝している、たくさん。 多くの友人ができた。マリアの時代にはいなかった【探究者】と呼ばれる、頼もしくもキラキラしていて、一緒にいるだけで勇気が湧いてくるような人たち。 老科学者【ドクター・リーウァイ】も、マリアにとって父親代わりの存在となった。彼はいつもとぼけた口調で、マリアがこの世界に馴染む手伝いをしてくれたものだ。 そのリーウァイの死を見届けることになるなどと、彼女は想像すらしていなかった。 しかし現実だ。 いま、リーウァイの肌から赤みは失せており、呼吸は途切れ途切れとなっていた。いずれも、腹部に受けた銃創がもたらしたものである。 震えているのがわかる。断末魔が訪れようとしているからか、それとも、リーウァイを喪う恐怖に、マリア自身が震えているからだろうか。 「よく、あの交戦地帯をくぐり抜けた……なんと言ったかな、マリアにエスバイロ操縦を教えてくれた友達のおかげだ」 感謝せねば、とリーウァイは深く息をついた。 トロメイア議長の放送と、各メディアの扇動により、現在世界各地で内乱的な騒動、あるいは旅団同士の軍事衝突が頻発している。そのすべてが単発的で全面戦争と言えるものではなかったが、いずれそうなるのは目に見えていた。 ここ数日リーウァイは、表向きメデナ議長トロメイアに従いつつ、彼女に軟禁されたマリアを救うべく単身で行動を起こしていた。 この日、ついにマリアを救出した彼であったが追っ手をかけられ、これを撒くべく、折良く戦闘が行われている空域へと突入したのだった。 レーヴァテイン傘下にある『黄金の豚団』とか呼ばれる傭兵隊が、テストピア国軍の一部隊の急襲を受けたものであった。両旅団間にはもともと領空問題があり、この非常時で突沸のように、フラストレーションが吹きこぼれたものと思われた。 嵐に笹舟で挑むがごとく、戦場のただ中を横切るという危険な賭であったが、リーウァイとマリアはこれを突破した。 ただし、無傷とはいかなかった。 非戦闘空域の浮島に不時着したマリアは、すぐにリーウァイの手当をしたものの、もはや手遅れだった。 「……博士、本機に教えて下さい。どうしてなのですか、人間が戦争をするのは? どうすればいいのですか、終わせるには?」 「わしにはわからんキニ。謎アルよ……」 博士はマリアを笑わせようとしているのだろう。例のムチャクチャな訛りで言った。 マリアは無理に笑顔を作った。口の端に血の泡を浮かせる博士を見ていては、笑うに笑えないのだけれど。 「でもな」 いつの間にかリーウァイのかたわらに、チャイナドレスを来た少女がうずくまっていた。彼のアニマ【孫娘(ソンニャン)】だ。 「もうな、博士な、口(くち)、きけんようになってもたわ……」 ソンニャンは哀しげに笑った。 「だからウチが引き継ぐで。博士はこう言いたいねん。『でもな、さっき通った場所の戦闘はもうじき終わる思うで』って」 えっ? とマリアは顔を上げた。 マリアたちは戦闘領域からは外れた。それでもこの場所からなら、旅団同士の空中戦はよく見えた。銃撃も光線も、爆発も。 ところがそれが徐々にしかし加速度的に、どこか戸惑うように止んでいったのである。もう、炎も音もない。 「あれな、どっちの側の兵士もな、みんなびっくりしてると思うねん」 ソンニャンは、とっておきのイタズラが成功した少年のような顔をしている。 「だってな、ほとんどの兵隊のアニマが、急に実体化したんやもん!」 この位置にいるマリアにはそこまで詳細に確認はできないが、ここで視点を戦場に移したい。 どの兵も戦意を喪失していた。 ある兵士は、同じエスバイロに乗っていたアニマが、急に実体を持ってもたれかかってきたので我を忘れた。 ある指揮官は、隣で空中に浮いていたアニマが、どすんと落ちて尻餅をついたので指揮棒を放り出し駆け寄った。 もう機銃などそっちのけで、我がアニマを抱きしめる傭兵がいる。 中学生のカップルのように、おずおずと手を握り合う兵とアニマの主従もある。 傷を負い、アニマに肩を貸してもらって母艦のタラップを上がる兵も。 「……全部マリアはんのおかげやで。とうとう完成したんや、アニマを【スレイブ】に戻す研究が」 ソンニャンは笑顔のまま、ぽろぽろと涙をこぼしていた。見れば彼女もマリアとともに、リーウァイの体を抱きかかえているではないか。 現在マリアの体から、目に見えぬ光線が放射されているという。その効果は周辺数十メートルにも及ぶ。これを浴びたアニマは、スレイブとして実体化する。触れることができるし、質量も、匂いもある。 「勝手にそんな処置してごめんな。でも、必要やってん。今はまだ、もって数時間の効果やけど、あとは……立派な研究者がひきついで恒久的に……」 あかん、とソンニャンは目をごしごしと手で拭った。 「せっかく、じいさんとふれあえるようになったのに……じいさん、もう逝ってまうんやもんなあ……」 ソンニャンの姿が薄くなっていく。彼女の体を通して、戦火の止んだ空が見える。 「最後のお願いや。マリアはん、世界をうんと飛び回ってくれんか……そうし……こんな………阿呆な内戦とか全部……」 終わると思う、とソンニャンは唇を動かしたのだが、もうその声は聞こえなかった。 霞のようにソンニャンが消失したとき、リーウァイの命が尽きたことをマリアは知ったのである。 「ソンニャンさん、博士……」 わかりました、とマリアは立ち上がった。 幸い、エスバイロの燃料にはまだ十分な余裕がある。 執筆:桂木京介GM |