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●part1

 吹き上がる風の冷たさに、【ロゼッタ ラクローン】は身をすくませた。
 まるで真冬だ。それも、風の強い日の。骨の芯まで凍えるような。
 明け方の空は昏(くら)くて、たなびく雲もどこか他人行儀で、ロゼッタの中にある大空のイメージとは隔たるところが大きい。
 しかしそれでも、ここは空のはずだ。
 ロゼッタの知る空にあんなものはなかった。それも、あんなに近くに。
 黒い海がひたひたと迫っている。星のない夜よりも濃く、井戸の底よりも深い闇色だった。
 アビス領域はもう、旅団の喉元まで迫っているのだ。しかもその上昇はなお継続中だ。わずかばかりとなった空を、人類に残された最後の世界を、一気に飲み干そうとしているかのように。
「あれが……」
 絶句する。思っていたより、ずっと状況は悪い。
「あれが、【シープヘッド】ですか」
 ロゼッタの言葉を継いだのは【ガットフェレス】だった。翼のごとくはためく前髪を手で直す。ガットフェレスはアニマであり、本来風を受けることはないのだが、こんな表現を出すことで動揺を鎮めようとしているのかもしれない。
 アビスの中央から毒茸のように、黒いものが『生えて』いる。
 女性の上半身だった。腰のあたりからはアビスと一体化している。どことなく、美術館で見たブロンズ像を思わせた。ふたつの乳房も、鎖骨のラインも確認できる。といっても、顔は羊のそれだった。シープヘッド――羊の頭とは、端的ながら正確な呼称だろう。
 亡者が光を求むがごとく、シープヘッドは両腕を天に伸ばしている。『彼女』を中心に、アビスが上昇しているのが確認できた。
「【アル】、高度はぎりぎりまで下げて!」
 飛行帽に手をかけると、【エルマータ・フルテ】は右手でゴーグルを下ろし左手で、バンドを引っぱって固定した。
「機体操縦は任せる。だから」
「エルさんは狙撃に専念したい……だよね?」
「わかってるじゃない」
 使い込み手入れを重ねた『モノ70』のグリップは、握り慣れた杖のように手になじむ。レバーを引いてストックを、肩の付け根にしっかりと当て、やや前傾姿勢になり照準をのぞき込む。以上一連、流れるような動きだ。エルマータはほぼ無意識で、しかも半秒もかからずして戦闘準備を終えた。
 このときすでにアルはエルマータ機にシンクロし、アビスに触れるのではないかというほどの低空飛空に入っている。
 エルマータは小さく息を吸う。
 息を、止める。
 シープヘッドの周辺には、【マンタ】と言われるエイのような生物が大量に、洞窟から吐き出されたコウモリを思わせる勢いで飛び交っていた。
 ぼっ、とマンタの一匹に光が宿った。エルマータの狙撃が命中したのだ。マンタはゴム風船のように破裂し消滅する。
(エルさん、いい感じ……)
 アルの賞賛が耳に届く頃には、エルマータの指はいまひとたびトリガーを絞っていた。
 炎の花が咲く。咲き乱れる。エルマータ機を追うようにして次々、エスバイロが戦いに身を投じていったのだ。
 そのなかに【レイ・ヘルメス】の姿もある。レイはシープヘッドから距離を取り、後方から僚機を支援していた。
「俺だけならば勝率はかなり低いが、皆と協力すれば勝ち目がないわけではないだろう」
 眼前に固定したキーボードに指を滑らせる。一定のリズムを保って叩き続ける。ピアニストのように大胆に、細密画家のように正確に。レイがリターンキーを打つたびアビスの上に、コンパスで描いたようなボムの正円が生まれる。
「その通りですわ、兄様。私はどこまでも、お供します。ご命令を」
 そのかたわらには朱殷色のドレスを着た【UNO(ウノ)】が、彼のミューズたるべく伺候していた。悠然たる物腰は、レイと双璧をなすものだ。
「Good」
 人差し指と中指を揃え、レイはモノクルの位置を正し唇を歪める。
 たとえ世界が滅亡の危機にあっても、レイは自分の美学を崩さない。このときもチェスを指しているときのごとく、冴えた口調でこう告げた。
「ならば殲滅だ」
 以心伝心、主の心をウノは知っている。
「心得ました」
 と答えると、彼女はエスバイロへのシンクロを開始するのである。
「目標は『殲滅』か」
 一口乗らせてもらおう、と呟いてレイのバイコーンを追い越し、【ジルアスタ】は風を切って最前線に向かった。
 敵は強大、味方は寡兵、世界の命運を分けるにしてはひどく分の悪い話だが、ジルアスタはためらわず交戦空域を飛翔(かけ)た。マンタ正面の僚機を援護し、傷ついた者があれば治療を施す。
 危ういところでマンタ群の包囲を抜け、安全圏でジルアスタは問いかける。
「そういえばリア、あのニュース、続報はあったか?」
「ううん、戦闘に集中してて」
 ジルアスタの隣に、【リアレット】が姿を見せた。前髪を丁寧にそろえたボブカット、縁なし眼鏡の奥は水色の瞳だ。
「でも事実だったら、すごく嬉しいよね!」
 遠足を待ちわびる少女のように、リアレットは目を輝かせるのである。
 数分前のことだ。真偽は不明だが報告が入った。
 旅団レーヴァテインやミルティアイでは、内乱が収まりつつあるという。
 その原因というのが前代未聞である。
 突如としてその周辺地域で、アニマが実体化しはじめたというのだ。
 自由意志もあり姿も見えるものの実体のないアニマが、ほとんどそのままで肉体をもったらしい。もちろん触れることもできる。抱きしめることも。ただしプライベートモードへの移行はできない。
 この奇跡ともいえる現象に人々は戸惑い、ほとんどの者は喜び、アニマの面倒を見るほうが忙しくて争いどころではなくなったということだった。
「……俺は信じる」
 それを確かめるためには、どうあっても生き残る必要があるだろう。
「リア、生きてたらお前を実体化してやる。色んな物に触れさせてやる」
 ねじ切るような勢いで、ジルアスタはエスバイロのアクセルを回した。
「うん! ジル様、だから私もがんばるね!」
 リアレットはエスバイロと同一化し姿を消す。
 抜けたばかりのマンタ群が、反転し迫ってきた。

 恐いですか、と【星野平匡】は訊いた。
「えっ? そ、それは……」
 適切な表現を探すように、【ソラ・リュミアート】は視線をさまよわせる。けれどもついに、
「恐い……です」
 そう認めて、小さくうなずいた。
 さもあろう。探究者とはいえソラは、アビスとの実戦はほとんどはじめて、しかもそれが世界の命運を賭けた最大の決戦なのである。恐くないはずがない。
「ソラ、私は教師失格かもしれません。教え子のあなたを、もっと多くの冒険に連れ出すべきだった、経験を積ませるべきだったと思っています。許して下さい」
「許すなんてそんな。今日だって、先生のおかげでここまで来れたんです。今のボクには感謝しかありません。ええ、ありませんとも」
(しおらしいこと言っちゃってさあ~)
 うひひ、とソラのアニマ【ミィ】が言ったものの、ソラは手で払いのけるような動作をした。
「どうしました?」
「え? いえ、なんでもありません」
 さて、と平匡のアニマ【ハルキ】が姿を見せた。
「我々は戦力として心許ないのも事実。味方の援護をしながら少しずつアビスに近づき、観察してみましょう」
 なにかわかるかも知れません、とハルキは告げるのである。
 同じく【エクリプス】も、戦いの中心に身を躍らせることより、やや後方に位置してアビス、とりわけシープヘッドの動向を調査することを選んでいた。
「エクル、何かわかりますか?」
 彼のアニマ【陽華 (ヤンファ)】が背後から問いかけてきた。エクリプスにはいま、陽華の眼差しは見えない。しかし明け方に咲く薔薇のような彼女の瞳が、じっと自分に注がれているのを感じている。
「わかったことは少ないけど、なんだかあの存在……シープヘッドって哀れに見える」
「哀れ?」
「そうだよ。両手を空に伸ばして、必死で何かを求めているような」
 ややためらったように言葉を切ったものの、エクリプスは気を取り直して続けた。
「誤解を恐れずに言うと……見ていられないんだ。なんだか『彼女』は、母を失った頃の自分のようで」

「なんと、これだけとな!」
 と言う【アルフォリス】の口調には、苦々しい色が見え隠れしている。二度データを確認して、溜息をつくように言った。
「アビス防衛線に集結した飛空挺……あまりに少ない。ブロントヴァイレス戦役のときの何分の一かの。しかも大型艦、旗艦はいうに及ばず、中型飛空挺にしたところで数えられるほどしかおらん。味方勢のほとんどがエスバイロではないか」
 仕方がないじゃない、と【フィール・ジュノ】は答える。
「内乱状態になってしまってほとんどの旅団の正規軍はそれにかかりきり、集まったのは私たちみたいな、自発的に集まった探究者ばかりなんだから。そもそも束ねる人がいないし……」
「それじゃよ」
 と言ったときにはもう、アルフォリスはぎらりと歯を見せている。
「これぞ千載一遇の好機!」
 ぺぺん、と講談師のように節を付けて言うのである。
「颯爽と戦場駆けるフィール・ジュノ、ちぎっては投げちぎっては投げ、投げてはめくれ・めくれては脱げの大立ち回り! 涙ありポロリありの大盤振る舞いで全軍をまとめあげるのじゃ! さすれば次世代アイドルにして戦女神の名はほしいままじゃて!」
「ポ……ポジティブすぎる! ていうかめくれたりポロリしたりはやめて~!」
「ええい、出し惜しみしとる場合か!」
「惜しんでるというより出したくないんだけどっ!」
 けれども、とフィールは思う。
 アルフォリスといるといつだって、なんだか死ぬ気はしないのだ。
「それにしてもフィールよ、思わぬか?」
 アルフォリスは、眼下のシープヘッドを見つめていた。おちゃらけた口調は引っ込め、あごに手を当てている。
「うん。わかるよ……直に見て確信した」
 シープヘッドは女性の肉体をしている。
 しかしその右腕には手首より先がなく、やはり右の頬には、ざっくりと大きな傷痕があった。
 似ている。
「あの姿……リン少尉と無関係だとは思えないよね」

 ◆ ◆ ◆

 フットペダルを踏む。
 一度強く踏んで、それでも足りず数度踏み込む。
「そんな……!」
 何度も試してようやく、【フラジャイルのマリア】は自分のエスバイロがもう動かないのだと認めた。
 マリアは計器に触れた。詳しい使い方は知らない。そも、アニマがいることが前提になっている装置類なので、通信機など装備されていないようだった。
 エスバイロには最低限の浮力がかかるようになっており、たとえ燃料が尽きても、数日は空に浮いていられる設計になっている。とはいえ一刻を争うこの状況下で、救援を待ち続けるわけにはいかなかった。
「あっていいのですか、こんなことが……」
 途方に暮れる、という感情をマリアは知らなかったが、いま感じているものがまさにそれなのだろうと、なんとなく理解はできた。
「厄介ごとかい?」
 マリアは振り向く。道ばたで知り合いに会ったような、ごく平然とした呼びかけが聞こえたのだ。
 間もなく【七枷陣】の乗るエスバイロが、マリア機に横付けた。
「七枷様」
 どうしてここが、と言いかけるマリアを制して陣は笑いかける。
「おじさんは散歩の途中でね。お前さんもかな?」
「マスター、質問です」
 碁石でも置くような調子の声がした。陣の真横に、【クラン・D・マナ】が浮いている。
「ついさっきまで必死でマリア様の消息を探しようやく追いついておきながら、そうやって余裕を演出する必然性はどこにあるのでしょうか?」
 クランの言葉に皮肉な様子はなかった。それどころか、自動翻訳機のように起伏が少ない。
 うへっ、と陣はばつの悪そうな顔をする。
「ばらすなよクラン、おじさんはこういうキャラで通したいんだ」
「そうでしたか。それならそうと先におっしゃってほしかったところです」
 もういいよ、と肩をすくめて陣はマリアのエスバイロを調べる。
「燃料切れじゃないな……だが駆動部が砕けてる。ちょっと修理に時間がかかりそうだ」
 と言うと、ひょいと立ち上がって陣は自分のシートを空けた。
「マリアは先を急ぐんだろう? ミルティアイまであと少しだ。おじさんの乗ってきたエスバイロを代替機にしなよ」
「それは……でも……」
「気にすんな。まあバラしちゃうけどこの先、進路妨害しそうな邪魔者がないようにしっかりとジャミングをかましておいた。安心して行ってくれ」
「ですが危険では、七枷様の身が?」
「世界の危機ってときにそれはないぜ、マリア」
 陣は破顔一笑して、
「なあに、後は野となれ山となれだ」
「ご心配なく。マスターは、逃げ隠れが得意ですから」
 とくに可笑しそうもなく、それでも、絶妙のタイミングでクランが言った。
「そういうこと。ほら、遠慮してる時間がもったいないって」
 陣は船頭小唄でも歌うようにして、マリアと自分のエスバイロを交換した。
「さあ行ってこい。負けるなよマリア。今の状況に、負けるな。……オレは信じてるから」
「きっとします、このお礼は」
 マリアを乗せたエスバイロは軽快に去って行った。
 彼女の背が、まだ小さく見えているそのときである。
 陣は声を上げ操縦桿に頭をぶつけた。背中に重く柔らかなものが落ちてきたのである。
「なんだ!?」
 首を真横に向けると、息がかかるほどの距離にクランの顔があった。いつも無表情な彼女が、このときばかりは目を丸くしている。
「……マスター、理解の範疇を超えた事態が発生しているようです」
「それはこっちの台詞だ! お前さん、まさか……!」
「はい。この感覚、状況から判断するに、私は実体化したと思われます」
 と言ったときにはもう、クランは淡々とした調子を取り戻していた。
「フラジャイルのマリア様について、流れていた情報が真実であると確認できました。これより状態の解析に移ります」
 クランはまばたきひとつしない。頭の中では電算機が急速回転しているようである。
「しっかし、実体化したのに物腰柔らかくならんのかお前さん」
「ご都合主義小説の読み過ぎです、マスター」
 ところで、とひとつ陣は咳払いした。
「重いんだが」
 クランは、陣の体に覆い被さったままなのだった。
「私はまだ実体化したボディーに慣れていません」
 にこりともせずに、クランは少しだけ声のトーンを落とす。
「なので……しばらくこのままでお願いします」

 ◆ ◆ ◆

 レーヴァティン少尉【リン・ワーズワース】の最期を詳しく知る者は少ない。
 内乱分子との戦闘で命を落とした、とだけ報じられている。その戦闘の詳細は明かされず、続報もないままだ。
 その一方で探究者のネットワークには、不確かながら根強い噂が流れていた。
 リン・ワーズワースが死亡したのは、一部特権者だけが外宇宙に脱出する【無何有郷(ユートピア)】と名付けられた計画の過程においてだという。リンは計画を阻止する側にいたのではなく、計画推進側に加わっていたというのだ。つまり彼女は世界を守るどころか、大半の人々を捨ててまで生き延びようとしたということになる。
 情報過多の現代である。さまざまな憶測、偽情報が飛び交っている。それだけに【ゆう】も、この噂に基づいて行動することにためらいがあった。
「……もしこの話がでっちあげだったとしたら」
 瞳を伏せる。今は一人でもアビスに対抗する戦力がほしい、そんなときだというのに。
「ゆう、だとしてももう引き返せない。直感を信じよう」
 アニマの【カイリ】が告げた。
「オレの直感を、かい?」
「違う。『ふたりの』直感よ。私とあなたの」
 ゆうは下方からミルティアイに近づいていた。だいたいの位置の目星はついている。噂が事実だとすれば、リン・ワーズワース最後の戦いは、大規模飛空挺の動力源【ヒンメル軌道リング】付近で行われたという。
「情報は確かだった……らしいな」
 ゆうは唇を噛んだ。
 先客があったのだ。半壊になった施設周辺で、ふたつの武装集団が交戦を行っている。
 ひとつのグループは、一様に黒いローブを着ている。ローブには三つ叉の意匠が縫い付けてあったが、それがなくても【アビスメシア教団】であることは一目瞭然だろう。祈りの言葉を唱えながら銃を撃ち、自爆攻撃も辞さぬ構えである。
 もうひとつは、きらびやかな制服に身を包んだミルティアイ正規軍だった。【エンジェルボイス航空団】、ミルティアイの歌劇団である。しばしばお飾りと考えられがちな集団だが、なかなかどうして高い実力を有しており、現在も数に劣る状態ながら健闘している。
「まずいな、例の【手】は教団側が持っているようだ」
 ゆうは目撃した。メシア教団員の一人が、切断されたとおぼしき人間の手を大事そうに抱え、黒い箱にしまおうとしている。
「あれを奪える?」
「まだ可能性はある。間に合ってくれれば……」
 カイリの問いに答えが与えられたのか、それとも、ゆうの願いが届いたのか。
 突然、悲鳴じみた声を上げエンジェルボイス航空団の女性兵士が身を伏せた。
 彼女にとどまらない。他の兵士はもちろん、教団員も狼狽している。
 呆然とする者、祈りを唱え出す者、座り込む者、反応はさまざまだったが、共通していることがひとつだけあった。
 いずれの者も、戦う意思を喪失しているということだ。
「よう、楽しんでっか?」
 ミルティアイでも、メシア教団でもないエスバイロが滑空してくる。【鶉 (うずら)】だ。赤いマフラーが風になびいていた。
「こんな状況で楽しんでるか、だなんて」
 ふう、とその後部シートで溜息をつくのは、彼のアニマ【×- (ばついち)】である。
「もうちょっと気の利いた質問はできないのかしら」
 頭痛でも起きたのか、彼女はこめかみのあたりをコツコツと握り拳で叩いていた。髪型は夜会巻、スーツ姿に黒縁眼鏡、そんな姿にこのポーズはよく似合う。
「そっか? 俺は楽しんでるぜ」
 へへ、と喜色満面の鶉は、男子小学生のごとく屈託がない。
「そんな×-も楽しんでるんじゃないのか?」
「私が? 何を?」
 と×-が言いかけたところで、ふたりを乗せたエスバイロがぐらりと揺れた。途端、きゃっ、と×-はらしくない声を上げて鶉に抱きつく。
「楽しんでるだろ? 初めての実体化ってやつを」
「……楽しくなんかないから」
 ×-はむくれる。けれどその頬は、かすかに紅潮していた。
「楽しんでいます、本機も。この状況を」
 もう一機、イルカのごとくエスバイロが飛来して停止した。乗っているのはフラジャイルのマリアだ。
「こうして見られたのですから……博士の研究の成果を」
 マリアは途中から鶉に先導され、無事ここに到着したのである。
 エンジェルボイス航空団もメシア教団員も、とうに戦いを放棄していた。彼らは今、それぞれのアニマと共にある。戦闘よりそちらのほうがよほど大事だというように、アニマの手を取り、あるいは座って膝に乗せ、あるいは、頭を撫でてもらって傷ついた心を癒やしていた。実体化したアニマだから、もう【スレイブ】と呼ぶべきかもしれない。
「すべて本当だったってわけね。リン・ワーズワースの右手も、アニマの実体化も」
 と言って浮き上がろうとして、カイリは四肢にずっしりとした感覚をいだき、戸惑った。
 カイリが感じたはじめての重力だった。






●part2

 ピンセットで歯車を持ち上げる。
 拡大鏡のなか、黒ずんだ歯車は抵抗することなく浮き上った。
 布の上にそっと置くと、布に雫のような、油の小さな染みが生まれる。
「世界滅亡まであと少し、か」
 珍しく独り言が出たのは、未練というものだろうか。そんなことを【ヴィクトル・ラング】は思う。
 暗鬱な光景を見るのに飽き飽きしたので、アニマの【咲良娑】にはもう、ネットやテレビには接続しないでくれと言っている。そうしてヴィクトルはずっと、懐中時計や腕時計のオーバーホールに没入していた。
 新しい歯車を取る。吹けば飛ぶほどに小さく、それでも花嫁衣装のように無垢で、まぶしい。
 歯車は、時計の心臓部にぴたりと収まった。
 ――希望を捨てずに足掻いている奴らほど、俺は勇気を持てなかった。
 認めてしまうと楽になる。
 あとはもう待つだけだ。『その時』が来るまで、自分の人生そのものともいえる時計たちの調整を行うとしよう。
「結局、何も出来なかったなァ。俺は」
 また言葉が漏れていた。
 しかし今度は、背後から応じる声があった。
「ワタシも何もしてあげられなかったけれど、最後までアナタと一緒よ」
 音もなく出現した咲良娑は、そっとヴィクトルを背中から抱きしめたのである。
 ――!
 水晶振動子の揺れに似た、小さくも確かな驚きがあった。
 気のせいじゃない。
 そこに、いる。
 そこに、ある。
 咲良娑の腕のぬくもりが。息づかいが。

 ◆ ◆ ◆

 小高い丘を登り切ったところに、緑に囲まれた小さな墓地がある。
 ゴスロリ衣装は箪笥にしまってきた。
 男物の太いネクタイを締め直し、【ノーラ・サヴァイヴ】は深呼吸する。上下黒のスーツ、手には、母親が好きだった白百合の花束。
 世界が終わるという。それももうすぐ。
 連続ドラマの最終回を、中盤の展開を飛ばして観ている気分だ。信じろと言われても難しい。
 でも――。
 最後なら僕はちゃんと、『僕』としてお母さんに会いに行く。
 そう決めてノーラは、母の墓を訪れたのである。
「この服、おかしくないよね? ミモザ」
 見上げるとすぐ隣に、アニマの【ミモザ・サヴァイヴ】が浮遊している。ミモザを通して灰色の空が見えた。
「よく似合ってます、ノーラくん。とっても……」
「ありがとう」
 ノーラは墓石の前に膝をつく。
 両手で花束を置いた。
「お母さん、僕はちゃんと、この世界で生きていたよ。かっこいいでしょ……!」
 首筋に、水滴が一粒落ちた。
「あれ、雨?」
 だが墓石は濡れてはいない。振り返って気がついた。雨と思ったのは涙の粒だった。
「ミモザ、泣いて……」
 泣いてくれるんだ、と浮かびかけた微笑はたちまち、驚きに塗り替えられている。
「え、涙って!?」
 アニマの涙で濡れた? 実体がないはずなのに?
 弾かれたように立ち上がる。
 ミモザも戸惑っていた。半透明ではない。浮いてもいない。自分の質量に驚いている。
「短い奇跡なのかもしれません。でも」
 そう告げると、母親のようにミモザは、ノーラをその胸に抱き寄せたのだった。
「一度、こうしてみたかった――」

 ◆ ◆ ◆

 濃いネイビーブルーのスーツ姿で、【ルビー・トロメイア】議長は舷梯を上がった。
 乗務員に案内されシャトルに乗り込むと、シートを倒し背もたれに収まる。シートには、深紅色のフェイクレザーが張られている。
 人差し指の腹でトロメイアは肘掛けをなぞった。
「ただ【方舟(Ark)】まで中継するだけのシャトルの、こんなところにまで資金を費やして……」
 つぶやきは誰の耳にも届かない。間もなく団体旅行客のように騒々しく、太ったメデナ議員たちが入ってきたからだ。同じような体型のその家族たちも続く。
 他に乗ってくるのは、俳優や女優などメディアの寵児、スポーツ選手、メデナに好意的な文化人や、いわゆる御用学者、行方をくらませていた元銀行王や、選挙に落ちたばかりの企業経営者の姿も見える。
 名刺を渡しに来ようとした者もあるので、トロメイアは優雅に手を振った。
「今はそんなときではありませんわね? 後ほど」
 シートベルトを着用するようアナウンスが流れる。機体が振動する。
 トロメイアは目を閉じ、シートに背を預けた。彼女の隣は空席だ。
 しかしシャトルは振動を止めた。
「エンジン部に軽度のトラブルが起きたようです。すぐ修正しますのでしばらくお待ち下さい」
 アナウンスに混じる、消毒液のような気配をトロメイアは聞き逃さない。
「どうぞ皆様は、このままで」
 確かめて参ります、とにこやかに告げるも、振り返ったときトロメイアの眼に笑みはなかった。

「止まった」
 額の汗を【羽奈瀬 リン】はぬぐう。羽奈瀬家の執事にメイドたち、すなわち精鋭たるハッカー集団は喝采こそしないものの、目と目でうなずき合っていた。
 間一髪だった。もう少しで【無何有郷(ユートピア)計画】の最初のシャトルが、メデナ本部から飛び立つところだったのだ。だが現在彼らは、メデナ本部の電源制御機能の大部分を支配下に置いた。少なく見積もっても数時間、計画は停滞を余儀なくされるだろう。
 しかし気を緩める暇はない。執事服、メイド服を着たハッカーたちはすぐそれぞれの機器に目を落とし、データ解析の仕事に復す。
「メデナ内の記録は、少しでも開けられた?」
 リンが問うも、【スピカ】は首を振るばかりだ。
「さすが、世界最高峰のセキュリティと言うほかないみたい」
 そうか、とリンは言うと、昨夜から椅子にかけたままのジャケットに袖を通した。
「やっぱり、ログロムから仕掛けることのできる情報戦にはおのずと限度があるね」
 ここは任せたから、そう言い残すと、執事が止める声を振り切って両開きの扉より飛び出す。

 サングラスをかけたトロメイアは、メデナ本部ビルの屋上に立つ。
 両手を柵にかけ眼下を眺めた。
 むせかえるほどに、硝煙の香りが漂っている。
 すでに内乱の炎はレーヴァティンのみならず、メデナ本部周辺にまで到達していた。この場所からでも、すぐ耳元で鳴っているような機銃の音が聞こえる。戦闘飛空挺が上げる黒煙、魔法による閃光もやまない。近くに迫撃砲の着弾があり、下腹を殴られたような振動が駆け抜けた。
 寄せ手は、メデナを糾弾する叛乱軍、防衛しているのは、主としてレーヴァティン軍から編成されたメデナ軍に、各地からの傭兵部隊を加えたもののようだ。しかし事態は渾沌としており、果たしてその見立て通りかは判然としない。
「発着場のシャトルはもう、駄目でしょうね。私の読み通りだとしたら、メデナ本部の電源制御は叛乱分子に押さえられてしまった」
 来て、と議長が呼ぶと物陰から、長身のエルフが姿を見せた。【イワン】だ。髪はおろか眉の一本すらなく、冷たく尖った目をしている。
 イワンは無言だ。構わずにトロメイアは言う。
「どうせシャトルの位置も特定されている。あれは囮として叛乱分子に差し上げましょう。私たちは、他の手段で方舟に向かいます」

 負傷者に包帯を巻きながら、【蛇上 治】は頭上に影を感じ振り仰いだ。
 味方機だ。被弾している。
 幸いエスバイロは数十メートル先に不時着し、パイロットは立ち上がってその場を走り去っていった。その背めがけて弾丸が降り注ぐも、ひとつとして命中はしていない。パイロットは旧知の【アリシア・ストウフォース】のようだ。彼女も、よく頑張っている。
「あれは……?」
 何気なくアリシアの行く手を追った治の視界に、本部ビルの屋上が入った。
 そこにちらりと人影が見えた。すぐに消えてしまったのだが。
「気がついた? 屋上の人、ルビー・トロメイア議長に似てたね? 背の高いほうはイワンかも」
 アニマ【スノウ】が言う。スノウは何気なく口にしただけだった。即座に否定されたとしても驚かなかっただろう。しかし治は「確かに」と口元を押さえたのである。
「灯台もと暗し、まさか議長がまだメデナ内本部ビルにいるとは誰も思わない……」
 綾さんに知らせねば、と治は立ち上がった。

 その頃アリシア・ストウフォースは、敵味方問わず、あらゆる人の治療に奔走していた。
「ワタシの前で誰も殺させない! 悲しい事件も起こさせない!」
 追われても、攻撃を受けても、アリシアが返すのは怒りではなく癒やしであった。だからアリシアが通る道では、戦闘不能となる者、武器を捨ててその場から逃走する者はあっても、死亡する者はなかった。
 撃墜されたエスバイロより転げ落ちるようにして逃げ、迫撃砲が空けた穴にもぐりこんでも、アリシアの目は輝いている。
「ヒヒ……治し尽くすよォ」
 こんなになってもそんなこと言うの、とアニマ【ラビッツ】は腕組みをした。
 大きな負傷こそないものの、アリシアの全身は小さな傷でいっぱいだ。煤でほうぼう黒く汚れているのも痛々しい。服だってあちこちほころびてしまった。加えて愛機は大破したところであり、とてもではないが前途に希望が抱ける状態には見えない。
「自分がボロボロになっても人助けなんて、本末転倒じゃないの!? ましてやここは戦場よ」
「戦場だからこそ、じゃない?」
 アリシアはニヤリとする。
「誰も傷つかない世界、時も場合も選ばない、それがワタシの望みなんだから。まあ、デモニックとしては歪かもしれないけど、これがワタシの生き方ってやつだし」
「ヒヒヒとか笑わなければ、まるで聖女ね」
 なんだかラビッツも、笑い出したくなってきた。
「振り回すけどこの行動に付き合ってね、ラビッツ」
「付き合うほかないじゃない? 私はアリシアのアニマなんだから」
「後悔してる?」
 まさか! とラビッツは言うのである。
「むしろ、アリシアをずっと見ていられるってことに、ワクワクして仕方がないよ!」
「オーケー! じゃあ、もっともっとワクワクさせちゃうよォ!」
 アリシアはまた、救助活動に邁進すべく一歩を踏み出した。
 最後まで誰かを救っていたい。
 自分に誇れる自分であるために!

 混沌とするメデナ本部周辺地域だが、少なくとも数の上では防衛側、すなわちメデナ軍が優勢である。正規軍だけあって装備も充実している。急襲からはじまったこの戦闘は、混乱が収まるにつれ徐々に、前線を後退させていた。
 背後の壁に弾丸が突き刺さる。もう少し位置が低かったら、眉間を撃ち抜かれていたかもしれない。
「これでは方舟はおろか、本部ビルにすらたどりつけん……」
 蜘蛛の糸にしがみついている気分である。【メルフリート・グラストシェイド】は奥歯を噛みしめていた。士気では負けてないという自信がある。しかし戦力比という現実は、その士気を蝕んでいく。
 それでも、彼のアニマ【クー・コール・ロビン】は笑った。
「あら泣き言? メルフリートらしくもない。まだ私たちには、頼もしい援軍があるはずじゃない」
「……そうか。そうだったな」
 クーの言葉を裏付けるように、電車一両ほどもある巨大な木が空から降ってきた。
 ただの木ではない。
 実は巨大なドリルだ。しかもモミの木……クリスマスツリー型の! 季節外れにもほどがある。
 歯科医のスクリューを何万倍にもしたような、耳を聾す回転音、地面を砕き破片を四方八方にまき散らし、クリスマスドリルは本部ビルの正面をこじ開けてようやく停止した。
「この戦い、ヴァニラビットが預かる!」
 風の唸りか雄叫びか、轟然、空から降りてきたのは【ヴァニラビット・レプス】の大喝だった。大角鹿のごとき大槍に、深紅と白の戦装束、同系の色調に染め上げたエスバイロの外観も、好戦的な意匠に改造されていた。
「アタシたちもいるゼェ!」
 イッヒッヒー! マッチ箱にまたがった少女が狂おしい叫びを上げた。さらに続々、赤と白の衣装を着た空賊軍が飛来してくる。
「我ら、三択弄す(サンタクロース)団改め【ヴァニラビット一家】!」
 どこから集めてきたのか、軍勢はモーニングスター、バズーカ砲など、見た目からして獰猛な武装を擁していた。
 吼えるがごとくヴァニラビットは呼ばわる。
「すべての兵、特に傭兵に告ぐ! 道は違えど、リン・ワーズワースは最後までアビスに抗ったわ! こんなところで内戦して彼女に恥ずかしくないの!? もう奈落は足元にまで迫っているというのに!」
 まるでこの瞬間を待っていたかのよう。
「いいタイミングですね。情報が入りました」
 アニマ【EST-EX (イースター) 】が姿を見せた。両手を広げると、彼女の両手の間にスクリーンが表示される。なおこのときイースターは、ちゃんとヴァニラビットと同じカラリングの服装に身を包んでいた。
「見えてる?」
 スクリーンに映ったのは、羽奈瀬リンのアニマことスピカである。
「ええと、私は……ま、善良な一市民、そのアニマとでも思ってもらえればいいかな? ちょっとうちのマスターが耳よりな情報を手に入れてね」
 にわかには信じられないだろうけど、と、スピカは付近にいる全アニマに向け、無何有郷計画にまつわるデータを送ったのである。推測混じりの不確定情報ではない。メデナ議会が隠していた予算報告書、ルビー・トロメイアの署名入り命令書、方舟の画像データなど、計画の存在およびメデナの関与を明らかにするものであった。混乱に乗じて羽奈瀬リンが本部ビルに侵入し、本部のコンピュータから直接吸い出した情報である。
 画面が切り替わった。今度は羽奈瀬リンその人が映る。
「それとここからは……僕が直接知っている探究者だけに送ります。できれば表沙汰にしないようお願いしたいのですが……」
 リンは明かした。
 ルビー・トロメイアと、リン・ワーズワースの間のことを。

 外の様子に気づき、【ブレイ・ユウガ】は足を止めてしまう。
「ブレイ!?」
 どうしたの、という【潮綾(うしお・あや)】の声は少し苛立たしげだ。
「終わったんだ、戦いが」
 メデナ本部ビルは、継ぎ目のない硝子張りの窓が特徴である。その窓一枚を挟んだ屋外では、火が火と争うような激しい戦いが展開されていた。それが嘘のように途絶えたのだ。
 ブレイと綾はビルの最上階にいる。包囲網をクリスマスツリーがこじ開けたときに突入したのである。電力の供給が止まっているため階段を駆け上がることになったが息は切れていない。
「それにしても」
 不気味だ、とブレイは言った。
 ビルに入ってから、ただのひとりも人間の姿を見かけていない。受付も事務員も、警備員すらいないのだ。外の戦火がやんだだけに、その静けさはいっそう際だった。
 アニマの【エクス・グラム】が言う。
「蛇上治さんからの情報では、屋上に議長、イワンの姿があったようよ」
「その証言は信じている。だが人がまるでいない理由は……」
「ご説明いたします」
 声がした。
「ビル全体の10%は要人です。方舟行きのシャトルに乗りました」
 短距離走ができそうなほどまっすぐで長い、赤いカーペットの敷かれた廊下、声の主はその端にいた。
「他の90%は、出勤すらしてきませんでした。自主的にね」
 ダークブルーのスーツを着た、すらりとした女性が歩んでくる。
 ルビー・トロメイア、メデナ議長である。
「おわかりですか? メデナ本部で働いているといっても皆、それくらいの責任感しか有していないのです。内戦の報を聞くや職場放棄してしまった」
 トロメイアは唇を三日月型に歪める。
「といっても、方舟に乗れる要人たちも大同小異、我が身可愛い人間ばかりですわ。旅団連合たるメデナの、最高意志決定機関であってもこの程度……人類にはほとほとあきれますわね」
「ならば問いましょう、あなたは自身はどうなのか、と」
 ブレイと綾は振り返った。トロメイアも足を止める。
 蛇上治が立っていた。血や煤、埃で白衣を薄黒くしながらも、胸を張ってトロメイアを見据えていた。
「トロメイア議長、あなたは人類を侮蔑していらっしゃる。しかしあなた自身は、果たしてそれほど大言壮語できるほどの人間ですか?」
「ええ、その通り」
 まったく迷いのないトロメイアの口調は、いっそすがすがしいほどだ。
「こんな人類であっても滅ぼすわけにはいかない。救い導かねばならない。導くことができるのは、私のように選ばれた人間だけです」
「世迷い言を」
 ブレイは一歩進み出て抜刀した。
「イワン、あんたもそう考えているのか!?」
 ブレイの剣尖は、トロメイアの背後に立つイワンに向けられている。
「……問答する時間は、ない」
 イワンは銃剣を構えた。切っ先を槍のごとく構え、駆ける。

 同じく本部ビルに突入したメルフリートは地下を目指した。囚人がいるとすれば、ここであろうと目星を付けていたのだ。
 読みは当たった。
 牢につながれた【ガウラス・ガウリール】を発見したのである。激しく拷問されたのだろう、ガウリールは見るも無惨なほど衰弱していた。
「ガウリール、生きていたか」
「……死んでいる暇が、無いものでな」
 ガウリールは腫れた瞼を大儀そうに持ち上げた。
「僕の考えを実現できる奴は、今あんたくらいしかいない……悪いが利用させてもらうぞ」
 メルフリートはガウリールに肩を貸し、立ち上がらせる。
(ええ、そうね……ガウリールには存分に働いてもらわないと)
 外に止めたエスバイロを、クーが遠隔操作で呼び寄せた。

 ◆ ◆ ◆

 止まりなさい、と叫ぶ声の主が、止まることなど期待していないと【スターリー】は知っている。
 でなければこれだけ、明確な殺意を持って発砲はするまい。
「ここまで食らい付いてきた執念は立派だ。しかし、射撃の腕はいまひとつらしいな」
「なんて言ったそばから、もう!」
 アニマの【フォア】は声を上げた。追跡者の銃弾がスターリーの耳元をかすめたからだ。
「油断大敵です! 当たったらどうするんですか!」
 数日前までのスターリーであれば、「当たったら死ぬだけだ」などと、パンの焦げをこそげ落とすように返していたことだろう。
 しかし今の彼は、そのような仮面を脱ぎ捨てている。
 死ぬわけにはいかなかった。未来のために。フォアのために。
「……すまん」
 素直に告げ、それはそうと、と続けた。
「着いたようだな」
 スターリーのエスバイロは宙返りするとそのまま、兎を狙う鷹のごとく高度を下げていく。
 追っ手のレーヴァティン軍も猛牛の集団のような勢いで彼に続いた。しかし彼らはそこで、急ブレーキをかける羽目になった。
 彼らは直面したのである。アビスに。そして、その中央から隆起するシープヘッドに。スターリーを追っていたときの勢いはどこへやら、兵たちは戸惑ったようにお互い、顔を見合わせている。
 これを見て一機、軍勢の中心に飛び込んだエスバイロがあった。
「目を覚ましてもらうときが来たようだ」
 黄金の髪をした青年、涼やかだが、揺らぎのない笑みをたたえて告げる。害意がないことを示すため入力端末は置いた。そればかりか、大きく両腕を開いた。
「私は【エルヴィス】。ご覧の通り、今この世界は滅びの危機にある」
 これだけアビスが近い状況である。中空にとどまることが危険このうえないとエルヴィスは熟知している。レーヴァティン軍に撃たれる可能性もある。
 それでも彼は動かなかった。ここが正念場と知っているからだ。
「しかし私たちは滅びるつもりはない。まだ世界を見ていない。人々の営みを見ていない。ゆえに『夢』のために、生きることを諦めない。皆、滅びに抗おう!」
 軍が静まりかえった。
 エルヴィスは喉の渇きを覚えていた。
 それでも動かず、自身の言葉がレーヴァティン軍に浸透するのを待った。
(彼らに、この意思は届くだろうか)
 そっと彼は【ケーナ】に問いかけた。
 ケーナはずっとエルヴィスのそばにいる。プライベートモードで彼を支え続けている。
(大丈夫です。エル……きっと、大丈夫)
 間もなくケーナは、通信が入ったと述べた。
「了解した。貴殿らに加勢しよう」
 そうしてレーヴァティン軍は一斉に、武器を構えアビスへと攻撃を開始したのである。
 スターリーも額の汗を拭った。
「……やっと本来の敵がわかったか」
 テロ屋の本領発揮とばかりに、スターリーはアビス領域まで、レーヴァティン軍を挑発して連れてきたのだった。
「お帰り!」
 フィール・ジュノの機体がスターリーに並んだ。
 スターリーが連れてきたものにとどまらない。さらに飛空挺の集団が戦場に姿を見せる。
 最初に現れたのは、赤と白に彩られた空賊団だ。
「死ねや者ども! ヴァニラビット一家の名の下に!」
 いくらおだてられてもこれまで『ヴァニラビット一家』と名乗るのは恥ずかしかった。しかし、高揚したまま叫ぶと案外悪くないなとヴァニラビット・レプスは思う。驚いたことにあの冷笑家のイースターまで、「続きなさい!」と後続を煽っているではないか。
「いくぜェ!」
「カシラに続け!」
 剣を抜きあるいは鉄爪を付け、二丁拳銃交互にブッ放ち、怒濤のごとく攻めかかる荒くれ者どもの叫びは、あたかも祭太鼓がはじまったかのように、戦場を揺るがすリズムを刻みはじめた。
 援軍はこれにとどまらない。
 メデナ防衛にあたっていた軍勢が加わった。
 その軍勢と、直前まで交戦していたメンバーも加わった。
「ヒヒヒ……こりゃあまったく、たまらないねェ」
 恍惚とした表情で、アリシア・ストウフォースは眼下を見渡す。 デモニックの尻尾がびりびりと震えるような心地だ。
 あらゆる軍服、あらゆる装備、ありとあらゆる探究者、マーセナリーもマッドドクターもアサルトもガーディアンもスパイもスナイパーも魔法少女もハッカーもマッドドクターも、もちろんアイドルも、遅れじと参戦したのである。
 黒一色のアビス勢、黒を含むあらゆるカラーの人間たち、灰色の空を銀幕のように彩る総力戦が始まったのだ。
「いやあまったく! 治療しがいがありそうだよォ!」






●part3

 着弾は、足元だった。
「イワン、あんたの行動も理由があってのことだろう」
 ブレイ・ユウガは銃撃をものともしない。体ごと突っ込む。甲高い音。刃先が跳ねたのだ。ノックバックを利用したイワンの銃は、ブレイの剣を弾いていた。縦にしたライフルで押す。咄嗟に斜め倒したブレイの剣と、樫材の銃身が鍔迫り合いの格好となった。身長はイワンが有利、体重をかけて押す。自分の白刃がじりじりと眼前に迫り、汗と熱で曇るのをブレイは見た。それでも、ブレイは一歩も退かない。
「……だが、俺は綾と未来を歩くと決めた。だから、アンタを倒す!」
「ならば、お嬢さんを連れて方舟に乗れ」
「何を言っている!?」
 イワンの形相は、とてもではないが冗談を言っているようには見えない。
「私は子孫を作ることができん。もとより現世に未練などないわ。ブレイ・ユウガと言ったな! お嬢さんと外宇宙で暮らせ、そして子を成すのだ。お嬢さんをどうか……」
 鎖分銅を回転させていた綾が、動きを止めた。
 しかし、 
「断る!」
 ブレイははっきりと言った。
「俺が綾と生きるのはこの空だ! 世界は、捨てない!」
 イワンの体が後方にたたらを踏んだ。
 踏み込み、袈裟懸けたブレイの一太刀は、イワンを深く斬り下げている。
「イワン! 今のは」
 防ごうとすれば防げたはず――と言おうとするブレイに首を振ると、イワンはどっと背中からカーペットに崩れ落ちた。
「信じるぞ、その言葉」
 引き金が引かれた。イワンの銃剣の。
「……ならばお前ももう、必要がない」
 放たれた鉛弾はルビー・トロメイアの胸を貫いている。
 左胸に手をやったトロメイアの腹部に、もう一発突き刺さった。
 貫通した弾丸はいずれも、巨大な窓硝子に蜘蛛の巣のようなひび割れを残した。
 これがイワンがこの世に残した最後のものとなった。すでに事切れていたのである。
 蛇上治はトロメイアに駆け寄る。たとえ敵とはいえ、医師として看過はできなかった。
 しかし医師だからわかる。
 手遅れだ。
「どうしたのです……あなた医者でしょう? 助け……助けてくださいまし……私には、まだするべきことが」
 トロメイアは血まみれの手で治の襟元をつかんだ。口元から、紅玉色の血の筋がしたたり落ちる。
「言い残すことは、ありますか」
 治は、トロメイアがその言葉の意味を悟ったと知った。
「助けてくださいまし……どうか……世界には私が必要なのです。まだ、必要なのです。……わかっているのですか、無何有郷計画を潰して、運良くアビスを退けられたとして……その後に来るものを? エネルギー問題、旅団間対立、メシア教団、貧困増に、いずれ来る食糧難……誰が解決できるというのです……この私以外に……!」
(死に赴きながらなんて傲慢な……!)
 スノウが告げるも、治は首を振ってスノウには答えなかった。
 代わりに、トロメイアに言った。
「私たちが引き受けましょう」
 どこを見ているのだろう。トロメイアの目はすでに焦点があっていない。涙だけがあふれ続けている。
「それにガウラス・ガウリール、あれは恐ろしい男です……きっとあの男は独裁者になる……いまより何倍も恐ろしい全体主義の時代が、来る……それを防げるのは……わた……」
「それも、私たちが引き受けます」
 だから、と治は、トロメイアの瞼を指で下ろしたのである。
「もうお休みください」 
 いまわの際にトロメイアがつぶやいたのは、
「リン」
 という短い一言だった。

 ◆ ◆ ◆

 ジルアスタは空賊のエスバイロに、ナノ・エイドで修理を施し、ふたたび最前線に送り出した。
「三択ナントカだっけ? このオレが、空賊に手を貸す日がくるとはな」
「ジル様!」
 リアレットが言う。
「今は『ヴァニラビット一家』というらしいよ。それに、ともにアビスと戦う仲間でしょ!」
「わかってるわかってる、ちょっと言ってみたかっただけだって」
 このときリアレットが、足を滑らせそうになったので、反射的にジルアスタはその手を引っ張って止めた。
「ジル様ありがと……って、あれ!?」
「おうどういたしまして……って、おい!?」
 もしかして!?
 レイ・ヘルメスは手を伸ばした。
 電気が背筋を駆け抜ける。整えていた髪がたちまち逆立った。人生で一度きり、ポーカー勝負でロイヤルストレートフラッシュが揃ったときですら、これほどは驚かなかっただろう。
「兄様、私……!?」
 彼女自身、目を見張っていた。
 間違いない。ウノが肉体を持っている。触ることができる!

「いやあ、絶景かな絶景かな! すごい効果だ」
 アビスがあんなに近くなければ、鶉は扇子でも取り出してひとさし舞いたい気分であった。なんとも愉快だ。アニマが実体化し、これに驚く人々の反応を見るのは。
「なにが絶景よ、物見遊山じゃないんだから」
 ×-はそんな彼を、眼鏡の位置を直しつつたしなめる。
「この界隈のすべての味方には私が通信で事情を説明するから……」
「マリアのことは守れってんだろ、当然だ。そうでないと楽しめないからな!」
「楽しめるかどうかじゃなく……」
 と言いかけた×-だが、まあいいか、という気になって口を閉ざした。
 なんだかんだいって、ちゃんと鶉は仕事をこなしている。
 自分が安心して腹を立てられるのも、そんな鶉が相手だからだろう。
 でもせっかく実体化できたのだ。あとで鶉の頬のひとつでも、思いっきりつねってあげるとしよう。
 鶉たちはフラジャイルのマリアを守りつつこの空域に進入したのだった。ゆうとカイリもまた、戦いの帰趨を左右するおぼしき少女を擁していた。
「……事情は、わかったよ」
 主人と離れているためだろう。突発的な眠気を感じている様子だが、それを除けば【オリヒメ】は健康そうに見える。
「あの中に、リンがいるんだね?」
 仙女のような髪型を結った少女、それがオリヒメだ。彼女はアニマである。それも、リン・ワーズワース少尉のアニマである。ミルティアイから発見されたリン少尉の右手、そこに埋まっていたアニマリベラーが、フラジャイルのマリアがもたらした効果で実体化したのだった。
「シープヘッドの中にリンがいるらしい。あるいは、リンが変化してあのような姿になったか……いずれにせよ、近づいてみるつもりだ」
「彼女に呼びかけてみてください。お願いします」
 ゆうとカイリの言葉に、オリヒメは交互にうなずいてみせた。
「といっても近づくのは難しい。シャレ抜きで命がけってやつだけどな」
 ゆうはスロットルを回した。エスバイロが加速する。
「……カイリ悪ぃ、こんなヤバいことの片棒をかつがせて」
「どうしたんです? 突然」
「オレはずっと、世の中からはオレだけが消えればいいと思ってた。今ならその理由が分かる。それは……オレにつながる誰かに消えないで欲しかったからだと……他人に興味がないようでいて、本当は傷つくのが恐かっただけなんだな」
 こういうのって、とゆうは言った。
「青臭いか?」
「かもしれませんね。でも」
 カイリは目を細める。
「あなたのそういうところ、嫌いじゃありません。……むしろ、好きかも」
 つながってる――と、ゆうは思った。
 実体化してふれあい、体温を感じあえるようになったからじゃない。
 オレとカイリはずっとつながっているし、これからもつながっていくんだ。
 このつながりを『絆(ほだし)』と呼ぶ人もあるだろう。人の心を縛る足枷だと。
 けれどゆうは、『絆(きずな)』と呼びたい。
「俺も、リン少尉も、絆を求めてる。なら……独(ひと)りじゃないって教えてやらないとな」

 エルヴィスとケーナも、エスバイロの狭いシート内でこの奇跡を迎えていた。しかし互いに周章はない。
 訪れるべきものが訪れた、そんな風に自然に受け止めている。
 実体化する以前からそうしていたように、ケーナはエルヴィスの肩に頭を預けた。
「こうなった以上、一秒でも長く、あなたといたくなりました」
「同じ気持ちだ。ケーナ、だとすれば」
「アビスが運命だとしても、認めるわけにはいきませんね」
 ふたりは顔を見合わせた。新婚者の朝のような、晴れ晴れとした顔を。
「さあ、抗おう」
「エル……たとえこれが終わりとしても。最後まで、あなたと共に」

 情報が共有された。
 効果のほどは未知数だが、オリヒメをシープヘッドに近づけること、それが作戦目標となる。
「そうと決まれば!」
 フィールは機体横に固定していた魔法の杖を外した。
「ここまで温存してきたど、ずっとこれ使いたかったんだよねー!」
 しかしこれを『杖』と呼ぶのは適切なのだろうか。自分の身長ほどもある、長大なライフル銃のような形状をしていたからだ。
 といってもその先端についているのは綺麗にカットされた宝石である。ハートや天使の羽根といった装飾もばっちり、これぞ『バスターライフルロッド』、魔法少女の最終兵器だ。
「マンタさんたち、道を空けてねー!」
 照準に目を当て、フィールは放つ。
「ひっさ~つ☆ファイナルダウン!!」
 まさに必殺、まさにファイナル、宝石から七色の光線が、二本うねりながら飛び出した。ビームと呼ぶにも眩しすぎる、そして勢いが強すぎる!
「わわわわわわわ……!」
 フィールはマシンから振り落とされそうになった。放出の勢いが激しすぎるのだ。それでも両腕を固定して狙いを動かさない。
 だが服のほうはそうもいかなかったらしい。なぜか都合良く危ない部位だけ避けて、びりびりと紙のようにちぎれ飛んでいった。
「わー! なにこれ!? まさかアル……!」
「そのまさかじゃよフィール! 破れやすい服にすり替えておいた! 魔法少女の真髄を見せ付けるのじゃ!」
「真髄じゃなくてハダカ見せてるとしか思えなーい!」
「そうとも言う!」
「言わなーい!!」
 マンタの集団を割るように光線が駆け抜ける。
 射線上のアビスは次々と消し飛んだ。
 それもわずか、一秒に満たぬ時間で。
「フォア、操縦は任せた!」
 このときスターリーも動いている。フィールが開いた道をなぞるように飛ぶ。
 自分の腰を抱くフォアの両手、そこに左手を重ねた。
「そばにいてくれ。フォア、ずっと」
「離れませんよスターリー。これまでも、これからも」
 あの巨大なシープヘッドに、自分たちの能力がどこまで通用するかはわからない。
 だができることはやる。全部やる。スターリーはその覚悟だ。
「トラン……」
 言いかけた。だが、わずかでも効果が上がるなら、きっちり呪文(スペル)は唱えたほうがいいのではないか、そんな気がした。
 えい、構うものか!
 決意しスターリーは大声で叫んだのである。
「へーんしん☆トランス!!」
 スターリーの姿に光が宿る。服装が一瞬変わったががすぐに黒いマントで覆われる。しかし効果は十分だ。
「任意の奇跡は起きないだろう。でもな、あいつに夢くらい見せてやろう!」
 そしてスターリーは渾身の、ひっさ~つ☆ファイナルダウンを放ったのである。

 一瞬、視覚と聴覚が消え去るようなファイナルダウンが去ったとき、シープヘッドの頭頂は大きく陥没していた。
「先生! あれ!」
 ソラ・リュミアートが指さした方向、羊の頭に開いた裂け目から人影がのぞいた。服は一糸たりとも身につけていない。おそらくは女性だ。
「リン・ワーズワース少尉……なのか」
 星野平匡は目を凝らす。しかし確認している時間はなかった。
 裂け目が現れたのはほんの一種だったのである。たちまち傷が癒えるようにして閉じ、ふたたびシープヘッドは、両手を伸ばし上昇を再開した。しかもその速度は速まっているではないか。
「どういうこと!?」
 ロゼッタ ラクローンが問うと、私見ですが、と前置きしてからガットフェレスが答えた。
「与えたダメージが足りないのだろうね。相当な一撃だったと思うけど、あの程度ならすぐ回復できるようだ」
 ガットフェレスは、翼のごとくはためく前髪を手で直す。今度は映像イメージではない。すでに実体化しているゆえ、本当に風に煽られたものだ。
「もっと破壊力のある攻撃をすればいいの? 集中攻撃するとか……」
「それより、質量のあるものをぶつけるのがいいと思う。アビスが呑み込もうにも時間がかかるようなものでダメージを与えれば、あの人影に届く傷口は、もっと長く開いたままになるんじゃないかな」
「質量のあるもの? 浮島とか、旗艦クラスの飛空挺とか……」
「あるいは旅団とか」
「旅団!? 何を言って……」
 ほら、とガットフェレスはシープヘッドの方角を指さした。
 正しくは、その上方より舞い降りてくる巨大飛空挺を。
 そのときこの場にいる全員に、画像データを伴う通信が入ったのである。
「……元メデナ特佐、ガウラス・ガウリールである。現在全員から見えているだろう。この巨大飛空挺から通信している」

 ガウリールは、そのアニマ【X2(エックス・ツー)】がコントロールするカメラの前に座っている。
 頭に包帯を巻き、幽鬼のように青白い顔色をしてはいるものの、爬虫類を思わせるゴーグルからの眼光は冷たくも力強かった。
「諸君、この飛空挺こそ、無何有郷(ユートピア)計画の要、『方舟』と呼ばれる外宇宙航行可能な単体旅団である。『方舟』はコードネームであり、実際の名は【シュメルツ】という。聞き覚えのある者もあるやもしれんな。かつて実在し、アビスに呑まれたと伝えられる第八の旅団だ。協力者を得て、私は本挺の奪取に成功した」
 後は彼が説明する、とガウリールが告げると、カメラはメルフリート・グラストシェイドへと切り替わった。
「僕はメデナ本部から、ガウリール特佐を救出した。そしてここに連れてきてもらった」
 遙か上空、成層圏間際に停泊していたシュメルツに着艦するのは多少骨が折れた。しかし警備は甘く、そもそも配置された兵員が少ないこともあって制圧するのは用意であった。
(本当にいいの? その先を言っちゃって……?)
 プライベートモードでクー・コール・ロビンが囁くも、いいさ、とメルフリートは返した。
「このアイデアは僕のアニマの思いつきなんだが……今からこの旅団を、アビスにぶつけるつもりだ。損失となるのは確かだが、世界が滅ぶのに比べれば安いものだろう。これが正義のふるまいかどうかはわからない。いずれ歴史が判断してくれるはずだ。けれど僕は、『正しい』行動だと思う」
 通信が終了すると同時に、それこそ天が落ちる勢いでシュメルツは降下を開始する。
「いい宣誓だった」
 ガウリールは口元を歪めた。これが彼なりの『笑み』である。
「メルフリート、この戦いが終わったら私の元に来るといい。学ばせてやろう。人を支配する術(すべ)を」
「後継者ということか」
「どう判断するかは、貴公次第だ」
 ガウラス・ガウリールは立ち上がった。座る前よりずっと、巨(おお)きく見えた。

 すべての兵力がアビス周辺から一斉退去した。
 マンタの追撃は少ない。ここまでの交戦でかなり数を減らしたためだ。
 間もなく、空前のものと空前のものが衝突した。
 遠目にはひどく、緩慢な動きに見えた。

 粉塵が消えたとき、シープヘッドの体は半分以上崩壊していた。
 頭があった場所は平らになり、その上に、裸身の女性が寝かされている。じわじわとシープヘッドの肉体は再生をはじめていたが、これまでよりずっと遅い。
「間違いない、あれはリン少尉!」
 エクリプスは確信をもって声を上げた。
 無論、アビスもこの状態をさらしつづけるつもりはないのだろう、マンタを集め女性を守ろうとする。
「ならば道を切り拓くまで!」
 これなら、とロゼッタは圧縮術式を解凍する。小さなプログラムに畳んだ状態の魔法が、一気に開いて炎の渦となった。しかもその副作用として、空気中に小規模の爆発が連なる。
 連鎖反応(リアクト)をかいくぐるようにして、エルマータ・フルテがエスバイロで切り込む。
「リン少尉さんのところへ、ルートを確保すればいいんだよね」
 命がけだとわかっているのに、不敵な笑みが浮かぶのはなぜなのか。実体化したアルが同行しているからか、それとも、これが新しい時代の幕開けになると、魂で理解しているからか。
 ――確実に射抜く!
 ライフルを構える。追い風やや北向き、弾道の計算を瞬時で済ませる。
 このときエルマータは、弓手(ゆんで)の指にきらりと光るものを見た。
 太陽が射したのだ。
 ずっと薄曇りだった空はいつしか、旅団落下という巨大現象の影響か青い空へと変わっている。
 陽射しを反射したのは、エルマータの指にはまった『探究ノ証』だった。
 ――まだ終焉(おわ)ってない。あたしはまだ、探求者なんだ……!
 引き金にかけた指に全神経を集中する。
 初速を保ち均一に、静かに、引く。
 エルマータの想いを乗せ、魔弾は真っ直ぐに飛んだ。
 派手さはない。だが光と化した弾丸は、万物を貫く。たとえ神であれ、その往く手を塞ぐことはできないだろう。
 やったね、とアルがエルマータの肩に手を置いた。
 鉛筆で塗りつぶした紙に、真っ直ぐに消しゴムをかけたよう。
 道ができたのだ。リン少尉への道が。
「任せたから! ……行ってきて! 少尉のところへ!」
 すべての探究者がシープヘッドの元へ馳せた。
 されど闇を畏れる幼子のように、シープヘッドは左腕を振り回しその接近を拒む。
「シープヘッド……いや、リン少尉……」
 エクリプスは最接近した者の一人だ。リンはもう、手を伸ばせば届くほどの距離にいる。
 けれどエクリプスは黙ってその上を通り過ぎた。その間ずっと、口をつぐんでいた。
 聞こえるような気がしたのだ。
 寂しい、寂しいと。
「彼女に必要なのは、救うことではなく、終わらせること、そんな気がする」
 エクリプスは呟いた。
「生きている限り寂しさに終わりはないから、結局のところ、人は孤独なのだから……そう考えるのは医者として失格だろうか」
 これはアニマの陽華に問うた言葉だろうか。
 それとも、自分自身につきつけた言葉だろうか。
 陽華は首を振る。
「それが罪なら、私が共に背負いましょう」
「……ありがとう」
 エクリプスは、
「シープヘッドの中のリンよ、せめて安らかに眠れ」
 鋭い注射針を、リン・ワーズワースの喉めがけて投じた。
 針が突き刺さった。
 リンではなく、とっさに身を投じたオリヒメの腕に。
 その上空では ゆうが、オリヒメをつかみ損ねた手を空しく揺らしていた。

「寂しいのね。

 わかるよ。

 だから、私たち(アニマ)がいるんじゃない」


 青い空を背負い、アビスが沈んでゆく。
 リン・ワーズワースはふたたび黒いものに包まれた。
 ただし今度は、オリヒメと一緒に。
 
 そうして二度と、この世界に姿を現すことはなかった。

 ◆ ◆ ◆

 このときを境に、アビスの高度は一気に、ブロントヴァイレス戦役以前の段階にまで復した。
 されど消滅はしていない。世界の足元には、虚無の不安が残されたままである。
 しかしその一方で、旅団の繁栄と進歩は続いている。
 いつしかこの惑星を、すべての旅団が離れる日が来るのかもしれない。

 ◆ ◆ ◆

 世の中にはさまざまな物語が存在する。
 希望に満ちた物語、恋と愛との物語、冒険につぐ冒険の物語……いずれの要素も、これからさらに語られることになると思う。
 思う、と書いたのは、まだこの物語が始まったばかりだからだ。

執筆:桂木京介GM