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●鏡魔宮
 さぞや黴臭いかと思われたピラミッド内部だったが、あまりそういった種類の臭気はなく、細かな金属片をふり撒いたときのような匂いがたちこめていた。
 床も天井も壁も、そのあちこちがガラス、あるいは鏡張りだ。外からの光が差し込むようになっているのか暗くはないものの、ゆえに距離が取りにくい。うかつに歩めば壁に頭をぶつけ、ときに空中に立っている心地がする。落ち着きのない空間であった。
 それゆえ歩みづらいことこの上ないが、『グリード ドレッドメア』にとってその状況はさらに厳しい。通路はそれなりに高さがあるといっても、それでも突き抜けるほど高いとはいえない。2メートル半に達する並々外れた長身の彼には、しばしば天井にすら警戒が必要なのだった。
「ったく畜生め、また頭をぶつけちまった!」
 グリードは額をさすった。空間かと思えば鏡、逆に鏡かと警戒すれば空間、その上ガラスもあって天井も邪魔で……とにかくいちいち腹立たしい。
「にーに大丈夫? なんだったら今からでもここを出て、椰子の木探しに参加する?」
 グリードからすれば半分以下の身長の、小さな幼い巫女が彼を見上げている。彼女は『ウリュリュ』、グリードのアニマだ。赤い袴で草履履き、タンポポのような黄色い髪が可愛らしい。
「ここを出る? んなわけねえぜ」
 ときに『狂龍』と綽名され恐れられるグリードだが、ウリュリュを見る眼差しだけは優しい。
「こうやっていちいち怒りを溜め込んでるおかげで、いつでも思う存分暴れられるってもんだ」
 にやりと牙を剥き物凄い笑みを浮かべて、グリードは両拳をパンパンと打ち合わせた。
「このピラミッドには怪物が出るってか……はっ……面白れぇ……! 宝なんざどうでもいいが、怪物ってやつは相当のもんみたいだな……。俺が仕留めてやるぜ……この暴の力でなあ……!!」
 上等だ、とグリードは言い放った。
 同じく探索を続ける『エルヴィス』は、怪物よりもこのピラミッドの構造が気になるようだ。
 こうしたものが作られた意図、そして、存在意義を考えながら歩く。
「通路はガラスと鏡……不意打ちのためか、反射を使った仕掛けがあるのか、それとも道を隠しているのか……」
 謎めいた意思の存在を感じずにはおれない。宗教や儀礼上のものだとしても、これを築く労力は気が遠くなるほどのものであっただろう。
「エルヴィス様、お気を付けて」
 たたっと彼の三歩先に駆けて、アニマ『ケーナ』は目の前の空間に触れるような仕草をした。
「ここは鏡、足元も鏡なので気づきづらいです。くれぐれもお怪我にはご用心を」
 うん、と生返事してエルヴィスは足を止めた。視線をほんわりと漂わせて、
「……さすがにスカートの中をのぞくためではあるまいし」
 はっ、としてケーナは思わず自分のスカートを抑える。
 確かに、丸見えだ。
 慌ててオープンモードを解除し、彼女は煙のように姿を消した。
 ところがエルヴィスはやはりピラミッド構造の理由を考えることに夢中で、ケーナに起こったことに気がついていない。そもそも彼女が姿を消したことすら認識せず、
「とにかく、進もう」
 と哲学の庭を歩むような足取りを進めたのである。

 光源のわからぬ迷宮、外を見ることもできぬゆえ、歩いているうちに位置感覚が失せてくる。
 その不安をまぎらわすように、『春虎』はアニマの『夏目』に話しかけていた。
「いかにもって感じだよな。真理的なものが眠ってそう、っていうかさ」
 ときどき、戦闘のものと思わしき音が聞こえてくる。だがどこかわからないので助けに行きようもない。宝箱を見つけても、回収班に任せることになっているゆえ基本は放置だ。
「ただ、だんだん真相に近づいている、って感じはしてるんだよな」
「そうかもしれないけど」
 と夏目は言った。
「春虎くんはもっと注意したほうが……」
「大丈夫だって」
 と、告げたまさにその瞬間に、春虎は痛烈に鏡に頭をぶつけている。
「ほおおお!?」
 痛いのと悔しいのと、恥ずかしいのが3分の1ずつ!
「だから言っただろ!」
 両の拳をグーにして、ぴんと後方に振り下げながら夏目はつま先立ちする。 

 ピラミッドに挑むにあたって、『空屋』にはひとつアイデアがあった。
「ガラスや鏡が邪魔なんだろう? だったら」
 解決方法がある。ハンマーを持ち込もうとしたのだがそれはかなわなかったので、ライフルの銃床を、渾身の力でガラスに叩きつけたのだ。
「こうやって砕いて進めば迷路も迷路でなくな……」
 鈍い音がした。
「……!」
 手が痺れる。膝を付いて崩れ落ち、しばらく痛みに耐えた。鏡はびくともしなかった。
 アニマの『シロア』が彼に駆け寄る。両手を胸の前で組み、大丈夫ですか、と心配そうに告げた。
「思うんですけど、人が多数乗っても平気な強化ガラスなのですから、そう簡単には割れないのでは……?」
「その意見は俺がこれを試す前に言ってほしかっ……い、いや、わかってた。俺にはわかってたんだ。ちょっと試してみただけだ……」
 せめて強がるほかはあるまい。銃が壊れなかったのは不幸中の幸いだろうか。

 薔薇飾りすらも黒、すべてを黒に統一したゴシックファッション、赤と青のオッドアイは昏く輝き、肌もまた闇色を帯びている。『ロスヴィータ・ヴァルプルギス』、自称『魔女』、その容姿からすれば鏡に映らないことも期待されたが、さすがにそれは無理のようだった。
 ロスヴィータは、無数のロスヴィータが映る回廊を歩んでいる。どの曲がり角の先にも彼女の鏡像がいる。ときとしてそれは十人を超す。そのいずれも、危険なほど魅力的な薄笑みを浮かべていた。
「鏡とくれば視覚は当てにならぬ。光も反射するので最低限に、だな」
 つぶやきながらだんだん、気持ちが昂ぶってくるのを彼女は抑えられないでいた。
 コンコンと壁をロスヴィータは叩いた。音は響くが、複雑な残響をするため簡単に位置を特定するのは難しそうだ。それゆえ彼女は道に迷わぬよう、黒い薔薇が印刷されたマスキングテープを一度通った場所にぺたりと貼り付けている。
 これをこの場所に貼れることが嬉しくて仕方がないのか、ロスヴィータの指先はかすかに震えていた。
 ロスヴィータとはまったく違って、『スターリー』はこの場所そのものに興味を抱くことはなかった。任務があるというからここに来た、どうせ宝を手に入れても個人の物にはならぬと判断し、探索を選んだだけのことだ。
 眼帯の無い側の眼、つまり右眼でスターリーは壁のラインを見る。鉛筆の後はない。
 堂々巡りをしているようだが、新しい道を歩んでいると言うことがこれでわかった。ここまで彼は、鉛筆を壁面に擦りながら進んでいるのだった。
 床をひっかく様な音がした。
 刃か、それとも、爪のようなもので。
 スターリーは眼を細め、アニマの『フォア』に目配せする。
(音が小さい。大型動物ではないようです)
 プライベートモードのフォアは告げた。
 歩み来た方向をスターリーは振り返った。乏しい灯りのため道は闇に閉ざされており、音の正体はわからない。
 幼き頃、夜の暗闇に怯えていたスターリーの姿をフォアは覚えている。しかし今のスターリーは闇を体に取り込んでしまったかのように、これを見つめても自若としている。自分としては彼の成長を喜ぶべきだろうか……。
 そのとき、一匹の獣が飛び出したのである。犬に似ている。大きさも。
 しかし問題はこの獣(けだもの)の頭部が、毛を持たぬ人間のような顔をしているところであった。
「こいつは何だ」
 スターリーは構えた。そのとき闇の奥の奥で、何か赤い光が灯ったような気がした。
 次の瞬間、犬は銃弾に頭部を射貫かれ、一声哭いてその場に倒れた。すでに事切れている。
「うわぁ、なんとか倒せた……かな?」
 がしゃがしゃと駆けてくる姿があった。鮮やかな水色の髪、『エルマータ・フルテ』だ。ひょいとゴーグルを額の位置に上げると、彼女はニッと歯を見せて笑った。
「大丈夫だった?」
 と訊いてくる。スターリーは彼女とは旧知だ。すぐに警戒を緩めて応じた。
「ああ。平気だ」
「うーん、これが【番人】とは思えないから、たぶんザコ敵ってやつだろうなあ。それにしても危なっかしいよね。鏡やガラスも割れたら大変だろうし」
 エルマータの言葉を補強するように、アニマの『アル』が姿を見せた。
「うん、だからエルさんも気を付けてね」
「もちろん気をつけるよ」
 とこたえてからエルマータはスターリーに言う。
「どうせならあたしたちと協力して探索しない? これがあるから、後衛は任せてよ」
 彼女が見せた武器は、愛用の【モノ70】であった。すでにずいぶん使い込まれているようだ。それなのにきちんとメンテナンスされている。
 もちろん、この申し出を断る理由はスターリーにはない。

●集結
「それにしても……」
 感極まったのか、くわ、と上半身を仰け反らせてロスヴィータは赤い口を開いた。
「ピラミッド! 何と浪漫溢れる言葉であろうか! この我が隅々まで暴いてやろうぞ!」
 哄笑する。何十人ものロスヴィータの鏡像が、同じように高らかに笑っている。
 こみあげてくるものが収まったのか、歩みを再開したロスヴィータだが、
「…………っ!」
 目から星が飛び出したような心境となる。見事、踏み出したところで彼女は額をガラスに激突させてしまったのだ。
 ぶわっとロスヴィータは振り向いた。
「見たか!?」
 が、アニマの『アダム』はマッピングしている手元のノートから顔を上げない。眼鏡が鏡のようになっていて、その表情は読み取れなかった。
「何をですか?」
 やっと顔を上げたアダムは、明日の天気を訊かれたときのように平然としている。
「だったらいい」
 コホンと咳払いして、痛む額をさすりながらロスヴィータは前に向き直った。
 実のところもちろんダムは見ていた。だが、言わぬが花という言葉もある。
 しばらく行くと広い場所に出た。
「お、いいところにまた一人探究者が!」
 エルマータが手を振っている。一緒に行かない? と彼女はロスヴィータにも誘いの言葉をかけた。

 いつしかエルマータ呼びかけたチーム合流は、多数のメンバーを加えた集団となっていた。
「助かりましたよ。うちのアイシャったら出発前にいきなり、エスバイロのライトで迷路の中を照らしたりしたんですから……おかげで光がさんざ反射して『まぶしい!』って怒られちゃって……」
 というのは『アイシャ』のアニマ『エマ』であった。大変にプロポーションのいい肢体をしている。
「だってやてみたかったんだもん。光を何かに利用した迷路なのかも、なーんて思ったんだもん!」
 アイシャのほうは金色の尻尾をぱたぱたと振っているが、少々いじけ気味だ。
「なのでチームに加えて頂いて助かりました。これでうちのアイシャの暴走もなくなるでしょう」
「暴走じゃなーいー! 好奇心を満たしただけっ!」
 アイシャはぐるぐると腕を振り回して抗議するのであった。
「みんなと情報を交換したいんだ。これ、僕が書いた地図だけど……」
 タブレットを取り出し、スタイラスペンで描いたマップを表示させているのが『リューイ・ウィンダリア』だ。真面目な性格なのだろう。地図には気がついたことや気になったことなど、こまごまと沢山の書き込みがある。
 アニマの『セシリア・ブルー』も、リューイに劣らずメンバーから情報を収集していた。
「どうも、人面犬や人面猫など、人の顔をしたモンスターが多く棲息しているようですね……」
 セシリアが情報を統合したところ、怪物が人語を話す傾向はなかったようだ。単純に怖いだけというやつだろう。攻撃も飛びかかってくるだけだったりするので、あまり知性はないらしいともわかった。
「ただ、最奥部に待ち構えているという【番人】まで低知性かどうかは判然としませんが」
 と意見を述べる『蛇上 治』だが、どことなくその顔色はすぐれず、具合はあまり良くない様子だった。それもそのはず、いくら強化されているといってもガラスに鏡だ、そのギラギラ感と擦れる音で、治は心が疲れてしまっているのである。
(平気? 具合悪いなら戻ったほうがいいんじゃない?)
 気を遣ってアニマの『スノウ』がプライベートモードで呼びかけてくれるのだが、治は力無く笑って首を振った。
「……平気、とは言わないが、要は慣れだと思う。俺の仕事は主としてサポートだから、戦いにも影響しないはずだ」
 スノウにはくだけた口調になる治である。意地や痩せ我慢ではない。このピラミッドの先に待つものを、見てみたいという気持ちが治を先に向かわせるのだ。
「しかし、興味深いな」
 しゃがみこんで人面犬の死骸を観察しているのは『フリューゲル』だ。雪のように白い髪が深い海色の眼にかかるのを手で払いのけ、じっとこれを調べていた。
「なるほど……」
「フリュー君、何見てるの?」
 と問いかけたのはアニマの『アイリス』だ。顔立ち、髪の色がいくらかフリューゲルに似ているため妹のような印象を与える。無論実際に血がつながっているわけではないものの、フリューゲルにとって彼女は、かけがえのない精神的な支えだった。
 フリューゲルは言った。
「この生物なんだが、明らかに普通の生物ではないと思う」
「どういう意味?」
「生物学から見ても生態系から逸脱している。おそらくここで生まれた突然変異種か、さもなくば、アビスが関係したものか……」
 だが彼はこの怪生物に、アビスがもたらす現象とも、どこか異種な手触りを感じるのだ。うまく説明できないのだが、自分の知っている範囲とは次元の異なる存在のように思えてならない。
 まさか別の世界あるいは外宇宙から……一瞬浮かんだその考えを、すぐにフリューゲルは打ち消した。
 行軍の先頭グループには俺が入ろう、と空屋は進み出た。
「ここまで自分は、この鏡やガラスの構造のおかげで、随分と痛い目に遭ってきた。うんざりするくらいにな……まあ、自業自得だが。少々痛みが増えたところで、さして変わらんだろう」
 いささか自嘲気味にそう言うと、
(そんな悲しいこと言わないでください)
 プライベートモードでシロアが呼びかけてきた。
「なぜだ? 痛い目を見たのを自ら嗤ってるだけだ。悲しくはない」
 いいえ、とシロアは首を振る。
(悲しくなるのは私です。自分を大切にしてくださいね。空屋様が元気だったら、私も嬉しいです)
 その言葉を聞くと空屋は黙って鼻の頭をかき、つぶやくようにこう返したのである。
「それなら……まあ、気をつけよう」
 いよいよ再出発というとき、集まっていた集団に、待って、と呼びかける声があった。
「あ、あの……ボクも参加させてもらっていい?」
 アイドルの服装をした少女だ。といってもかけだしなのか、それほど派手な衣装ではなかった。追いつくと皆の中央に、恥ずかしそうにおずおずと進み出た。短いスカートの前で手を揃えている。
 黒い髪に黒い瞳、肌は新雪のように白い。目立つ目鼻立ちではないものの、十人中九人は可愛いと認めるであろう貌(かお)をしている。
「ボクはトリスタ……『トリスタ・カムラ』、まだ不慣れだけど、志願してこの作戦に参加したんだ。探索のお手伝いができたら、う……嬉しい」
「ほらほら、カタくなっちゃダメ、笑顔笑顔!」
 と言ってトリスタの背後から、彼女より背が高く明るい髪色の女性が姿を見せた。うっすら透明がかっているのでアニマなのは間違いない。けれどトリスタに負けない実在感があった。
 少女は、トリスタのアニマ『フォルテ・ハーモナー』だと名乗ると、深々と頭を下げた。
「ごめんなさい。遅ればせながら、トリスタともども参加をお願いに来ました。枯れ木も山の賑わいと言いますから、微力とはいえ置いてくれると嬉しく思います」
「もちろん、断るはずがないよ」
 エルマータはさっと右手をトリスタに出し、すぐに気づいて手袋を取った。
「よろしく」
 手を握ってトリスタは思う。この人……エルマータの笑みは、とてもチャーミングだと。
「こちらこそ、よろしく」
 手を握ってエルマータは思う。感情を出すのが不得手そうだけど、この人は信頼できそうだと。


●迷宮狂想曲
 チームを組んで行動している『イーリス・ザクセン』と『チュベローズ・ウォルプタス』は、互いのアニマも含めて、きちんと役割を分担していた。
「はい、歩数のカウントは終わりました。次曲がれば、計算では最初の十字路に戻るはずです」
 イーリスのアニマ『エルザ』は、かなり細密なマッピングを行っている。
「時間はかかるけど、これが確実で王道よね……」
 了解の意味でイーリスはうなずき、移動を再開した。
 エルザのマッピングには特徴があった。漫然と方角だけ記入するのではなく、右手でずっと壁をなぞりながら進むといういわゆる『右手法』を併用、さらに歩幅で距離も測定しているのだ。ゆえに正確さという意味では現在、ピラミッド内にいる探究者の中でももっとも完成度の高い地図になるのではないか。いつかこのピラミッドの再調査が行われた場合、おそらくこれが公式の地図のベースとなることだろう。
「最初の十字路ですか……さきほどあの場所では動物らしい物音がうっすらと聞こえましたが、今度は遭遇する恐れがありますね」
 チュベローズが告げると、すぐに彼女のアニマ『ゲッカコウ』が応じるのである。
「チュベローズ様、イーリス様、そうなった場合も私がバックアップします。安心してお進み下さい」
「頼もしいですね」
 イーリスはうなずく。
 アニマを含めたこの四人であれば、何が現れても負ける気はしなかった。

 さて……と、春虎は苦笑いした。
 認めざるを得まい。
「迷ったな! うん! 完璧に迷った!」
 堂々と認めるといくらか楽になった。はははと力なく笑う。
 なにしろ大変な迷路なのだ。構造が複雑な上、上がったり下がったりが繰り返されたので、いちいち把握しているつもりでも、自分が何階にいるのかすらわからなくなる。道中何度も頭をぶつけて、そのたびに歩くリズムが狂わされたことも大きかった。
「そもそも帰れるのかすら怪しくなってきたぞ」
「やっぱり……」
 と夏目は頭を抱えた。
「なんかね、春虎くんどんどん歩くから、道を把握しているのか不安だったんだよ」
「じゃあ夏目は道を覚えてるのか!?」
「……まあ、ここまで来た道だけはね。帰るだけなら大丈夫だと思う」
 助かった! と春虎は生き返ったように小躍りする。
「やっぱ、持つべきものは賢いアニマだな!」
「こういうときだけ褒めないように」
 だが彼らの歓談はここまでとなった。突如暗がりから、狼のような生き物が駈け込んできたからである。しかもその顔は……人間のおっさんだ!
「うわ! 人面おっさん!」
「それを言うなら人面狼!」
 夏目に叱られつつ春虎は斧を構え、迷宮の狭さを活かした戦いを考えるべく、周囲に注意を巡らせるのだった。

 イーリスは進みながら、左手に握った棒で何度か壁を叩いていた。
「隠し通路や罠の用心のためです。もちろん、額をぶつけないためでもありますが」
 おかげでイーリスの額は、いまだただの一度も、壁にごっつんを経験していないのである。茹でたての卵のように無傷で美しいイーリスの額なのだった。
 イーリスの美しいパーツは額だけではない。
 長い脚もだ。脚とともに、床の鏡に映し出されている……スカートの下も。
 もちろん、イーリスは丸見えの事実に気がついている。しかしそれを騒ぎ立ててどうなるだろう。同行しているのは、今や莫逆の友といっていいチュベローズではないか。
 それに――。
 イーリスはおもむろに振り返った。足元にそっと視線を滑らせる。
 それに、見ようと思えば、チュベローズのスカートの中だって見ることが……!
「す、すみません!」
 はっとしてイーリスは正面に向き直った。
(私としたことが、なんということを……!!)
 後で激しく反省することになりそうだ。
「どうかしましたか?」
 チュベローズがきょとんとした表情で問うてくる。
「いえ、何でも……」
「けれどイーリスさん、お顔が赤いような……お具合でも……?」
 このとき幸いにも(?)十字路のところで人面チワワが数匹、牙を剥いて襲いかかってきたため、この会話は中断となった。
「ゲッカコウ、手筈通りに!」
 ゲッカコウとエルザも戦闘体勢に入った。
 今は戦いに集中しよう。


●最奥部
 壁に叩きつけられる。みしっと肋骨がきしむ音をグリードは聞いた。むしろ厳しいのは後頭部をしたたかに打ったことだ。意識が遠のきはじめる。
「面白れぇ………! まったく、面白れぇぜ!」
 ここまで狂戦士として、狂龍の双つ名の持ち主として、迫る人面動物を蹴散らし叩き潰して邁進してきたグリードだった。戦いを求める本能が導いたのか、ついにピラミッド中央部、大きな石室にたどり着いたのである。
 そこで彼を待ち受けていたのは、この場所で最大の怪物であった。
 やはり人面、しわくちゃの老人の顔を持ち、野太い脚のライオンの体をしている。
 そしてこの怪物には尾があった。サソリの尾が。当然、毒針も備わっている。
 伝承では【マンティコア】と称される怪物だ。
 怪物はグリードを上回る巨体であった。そればかりか、非常に素早かった。その前脚の一撃をかわしきれず、グリードはあえなくここに沈んだのだった。
 されどマンティコアにとどめを刺す余裕はなかった。
 好奇心には勝てなかった。危険を感じながらも、エルヴィスもまた、単身でこの場に足を踏み入れていたのである。
「初めて見る存在だ、しっかりと研究せねば」
 笑みを抑えられない。世界は広い、とエルヴィスは思った。これほどの怪物が棲息しているなんて!
「エルヴィス様! 単身で勝てる相手でではないわ! 逃げましょう!」
 ケーナが呼びかけるも効果は無かった。
「待て。もっと近くで見てみたい」
 磁石に吸い寄せられるようにして、エルヴィスはふらふらと怪物の姿に近づいていく。
「エルヴィス……!」
 ケーナも必死だ。このときエルヴィスの眼前に両腕をひろげ立ちふさがった。
「エル! 私の言うことを聞きなさい!」
 ケーナの声が届いたというのだろうか。
 このときバラバラと、階段を駆け上がり回廊を駆ける足音が聞こえた。それも、ひとつやふたつではなく。
 広い石室に、最初に姿を見せたのはスターリーだった。それにロスヴィータ、エルマータ、空屋、トリスタ、フリューゲル、アイシャとリューイも。
 さすがにこれだけの人数を目にして、マンティコアもたじろいたのか、低いうなり声を発し後退した。
「やってみたいことがあるの!」
 いち早くアイシャが飛び出した。示し合わせていたのだろう、リューイも同時に出る。
「老人の頭なら、話しかけたら気が引けるかも?」
 リューイが言う。そしてアイシャが、
「チョ~ットイィデスカァ~?」
 謎の訛りで話しかけた!
 わかったことがふたつあった。
 ひとつ! 言葉は通じない! マンティコアはさらに大きな声でうなっただけだ。
 ふたつ! それでも探究者たちの謎すぎる行動に、たじろぐ程度の知性はあるということ!
 つまり攻撃のこのうえない好機が訪れたということだ!!
「フォア! 四の五の言わず管理してる魔力を全部こちらに回せ! 得体のしれん奴相手に小技で探っても仕方ない!」
 スターリーは叫びとともに得た魔力をすべて火力に叩き込む。魔力の塊が熱の塊となり、これを受けたマンティコアは大きく吼えた。
「魔女の洗礼を浴びるがいい!」
 ロスヴィータがミサイルを放射するのと同時に、
「エルさん、今です!」
「もちろん! いつでもいけるよ!」
 アルの合図に応じエルマータは、【フラッシュエイム】で命中精度を上げたライフルを、下半身を安定させた立射の姿勢で正確に放った。狙ったのは顔や腹ではなかった。サソリの尾だ。見事、先端部は射撃練習場の標的のごとく吹き飛ばされた!
「あれで銃がイカれなかったのは、本当に運が良かったな……」
 空屋は膝を付いた膝射の姿勢で狙いを定めた。呼吸を整えてトリガーを、引くというより絞る要領で軽く倒す。銃弾はマンティコアの右目に命中した。
 このときトリスタに、そっと呼びかける声があった。それがフォルテの声であることは言うまでもないだろう。
「大丈夫、トリスタができる子だってこと、わたしは知ってるよ」
 こくりとうなずくと、トリスタはその本領を発揮した。
 すなわち、鈴が鳴るような清らかなその声で、味方を鼓舞し強化する歌を唄いはじめたのだ。
 やはり、とフリューゲルは戦慄を覚えている。これまでの人面獣どころではない。あの怪物は、それこそまったく異世界の存在だ。アビスが原因ではない魔が存在するというのか。あるとすれば、どこから来たのか。
「しかし今は、斗(たたか)うべきとき――!」
 フリューゲルは、エルリックと呼ばれるハンドアクスを振りかざした。
 初手で大きくリードしたとはいえ、マンティコアはあまりに強大だった。全員で包囲し一斉攻撃しても、すさまじい力で押し返される。しかしマンティコアには傷を癒す術はない。だが彼らには、蛇上治がいる。
「立てますか?」
 治はグリードにも応急処置を施していた。もう疲労感など吹き飛んでいる。
 アイシャ左足を軸とし右足で踏み込み、順手に握ったソードを叩きつける。相手の胴を薙いだ一撃が、ついに禍々しき怪物をよろめかせた。
 エルヴィスも戦いに参加している。リューイは武器こそないものの、負傷者を運ぶ役割を担っていた。
 そうして、ついに、
「いくぜぇ!」
 あの男、グリードが再び、立った!
「これがテメェを喰らう狂龍の一撃だあああ!!」
 両の拳を組み合わせ、雷神のハンマーのごとく怪物の頭部に、怒濤の勢いで振り落としたのである。
 これが怪物の最期となった。

 しばらくは石室の誰一人、立ち上がることできなかった。


●財宝回収記
 探索メンバーたちが手をつけず残していったもの、それが、ピラミッドの方々に意味ありげに置かれた宝箱であった。
「ま、楽な道を選んだと言えば、そうかもしれないが」
 『フランツ』は、ちくちくと針を動かし続けている。歩きながらの裁縫など家庭科的にはお奨めできない行動だろうが、できるのだからやるのだ。むしろ針の手を止めているほうが落ち着かないくらいだ。彼にとって裁縫は趣味であり仕事であり芸術であり、大げさかもしれれないが生き様なのである。
「しかしこうしている間にも俺の刺繍を待っている人がいる。そのうえ宝の回収任務も果たせる。文句はないだろう」
「別に文句はないけどね!」
 数メートル先では、アニマ『レプリカ』が腰に手を当てて彼を待っていた。珍しいアニマである。目の色はスカイブルー、髪の色もスカイブルー、そして肌までスカイブルーなのだ。それで長い髪をなびかせちょこまか歩いているのだから、まるでおとぎ話の妖精のようだ。
「でもはやく来てよー! またまた宝箱はっけーん、なんだからー!」
 彼女はこれが探究者としての初仕事なので、大変張り切っているのである。いわゆる『ながら仕事』のフランツとは士気の高さが違う。
「わかったわかった……これだな?」
「うん、チェックしたけど罠はなさそうよ」
 仕方ない、とフランツは宝箱に手をかけた。アニマは物理的な存在ではないので宝箱に触れることができないのだ。
 無造作に開けたところで、びっくり箱のごとく内側から、人面小型犬(パグ?)みたいなのが「がうわうわー!」と調子外れの叫びを上げて飛び出してきた。
「ってなんか変なの出たぁ!? ヤダやっつけてフランツはやくー!」
「おい仕事を増やすな」
 たちまち不機嫌になるフランツである。
「って、 あんたは仕事しなさいよ!」
 フランツによる八つ当たりのようなナックル連打で、モンスターは宝箱に再封入された。

 このとき『プララ コンデストア』の目は、いささか血走っていた。
「遺跡探索……お宝……金銀財宝取り放題……こんなの行くしかないよね~」
 そんな言葉を密教の経文のようにぶつぶつつぶやきながら彼女は、かるく背をかがめてピラミッドをひたひたと徘徊していた。青色の長いポニーテールが自慢なのだが、このときばかりはほっかむりして隠している。
 目撃されては困るのだ。このとき、プララは明るく元気なアカディミア第3学区所属のケモモ少女ではなく、仮面の下に隠れたもうひとつの顔、すなわちスパイにしてシーフ(盗賊)としての顔をあらわにしていたからである。
 ありていにいえば、火事場泥棒、であろうか。
「他の探索者共の隙をついて一銭でも多く私がもらう……ってことで」
 一応ここまでは善良な探究者ということでやってきたのだが、ピラミッドに入って他のメンバーと別れるや否、彼女は一匹のドロへと変身を終えていた。
 ところで彼女のアニマ『ペトラドロキア』は……?
「たまらないっすねぇ。スリルっすねぇ」
 善の声になるどころか共犯者として、やっぱりほっかむりしてプララの後についているのであった。
 だめだこりゃ。
 ところが下心があるとなかなかうまくいかないもので、さんざ探し回り数時間もかかったすえに、やっと二人は宝箱にありつけたのである。
「よーし、開けちゃうよ-」
「開けちゃうっす!」
 ぱかっと開けたところ中には、ぴくぴくと痙攣する死にかけた人面パグが入ってるだけであったとさ。

「探検家みたいでわくわくするね。 ミモザ」
 と、『ノーラ・サヴァイヴ』はスキップするような足取りでピラミッドを調べて回る。ほとんどの危険物は探検班が取り除いてくれたから、大迷路で遊んでいるような気持ちだ。
 ピアノ鍵盤柄のフレアスカート、レース袖のワイシャツにボウタイ、ニーソックス、すべてモノトーンで統一したゴスロリファッションではしゃぐノーラは、まるで遊園地に来たばかりの少女だ。ノーラは実際のところ少年だったりするがそこはそれ、可愛いこそがこの世の正義なのでよしとしよう。実際、とても似合っているのだし。
 そんなノーラにアニマの『ミモザ・サヴァイヴ』は、姉のような、母親のようなまなざしを向けている。
「そうだ!」
 このときなにか思いついたらしく、ぽんとノーラは手を打った。
「ミモザ、どっちが多く宝を見つけられるか勝負しようよ! 負けた方が勝った方のお願い一つ聞く、ってことで」
「勝負ですか……?」
 まだまだ子どもですねぇ、とミモザは嘆息するのだが、このときあることに気がついて声を上げた。
「あ、ノーラくんそこガラス!」
 がしかし、少々遅かったようだ。
「ああもう……」
 けれどもノーラの請うような視線に、ミモザは逆らえないとわかっている。

 七枷陣は宝箱に手を乗せ、情報端末から伸ばした聴診器を耳に当てている。
 端末のほうは、ゆっくりと箱の上を動かしスキャナーとして用いていた。
 そのすぐ隣、一流ホテルの従業員のように綺麗な姿勢で立っているのは彼のアニマ『クラン・D・マナ』だ。
 クランの目には感情の色がなかった。まばたきすらしない。口もずっと真一文字に結ばれているため、等身大の精巧なマネキン人形のようでもある。
 しかし彼女はマネキンではない。この姿勢をとってきっかり1分後に口を開いた。
「いかがですか、マスター」
 ああ、と陣は立ち上がって首を鳴らすと、いささかがっかりしたように言ったのである。
「こいつはデジタル錠じゃないな。つまり、おじさんの出番じゃないってこった」
「では放置ですか、マスター」
「それはな……」
 ニヤっと笑みを浮かべた陣だが、彼が続きを言うより早くクランが言った。
「マスター、そもそもロックがかかっていないようですが」
「あー……オチ、先に言われた」
「マスター、計器に表示されていました」
 わかってるよ、と陣は無造作に箱を開いた。青い宝石のついた首飾りが出てくる。
「おやおや、こりゃきっと値打ちもんだな。いやぁ~、こういう仕事ばっかりなら、おじさんも楽できるんだけどねぇ」
「マスター、ネコババはダメですよ?」
「しないよっ!」
 まったく可愛げのない、とブツブツ言いながら、陣は先を進む。

 プララがなかなか宝箱までたどり着けなかったのは、探索チームが流してくれる宝箱発見情報を使えなかったことにある。使ったらとしたらたちまち『足がつく』わけで、盗ったらことが露呈するだろう。なんとも悩ましい。
 しかし『まゆゆ』と『舞鶴 冬花』にはなにも問題はなかった。彼女たちはちゃんと、世界のために宝回収を行っているのだから。
 まゆゆのアニマ『ゆゆゆ』が、
「やった、センサーの反応、近くだよー!」
 端末にアクセスして得た情報を告げた。まゆゆと冬花は期待に胸を膨らませる。ここまで彼女たちは、濃いオレンジ色に輝く最高純度のフラグメント石、宝石のちりばめられた剣と、貴重品をつぎつぎと回収していた。次も期待できそうだ。
「さきほど回収したフラグメント石だけで、どれくらいのエネルギーが供出できることでしょう。世界に貢献している、って気になれますね」
 冬花が話しかけると、まゆゆは目元を緩めて微笑みこれに応じた。彼女は「篠峰・まゆか」というのが本名なのだが、ハンドルネームのような『まゆゆ』のほうが通りがいいので、探究者としてはこう名乗っている。
「ええ、フラグメント石を絞る過程を見に行きたいですね♪」
「絞……? いえ、フラグメントは特殊な工程を通して精製するのであって、ジュースみたいに絞るではありませんよ?」
「え……」
 一瞬絶句したまゆゆであったが、慌てて取り繕うように笑い飛ばした。
「あ、ははは、冗談ですよ。冗談!」
「ああ、冗談でしたか。ははは、まゆゆさんにはいつも引っかけられちゃいますね」
 冬花はにこにこと笑む。面白くって、いつも私を笑わせてくれる友達……冬花はまゆゆのことが大好きだ。
 ごめんねこんな残念な人で、まゆゆは心の中で冬花に頭を下げる。いつもわたしを信じてくれる友達……まゆゆは冬花のことが大好きだ。
 宝箱の前に立つと、冬花のアニマ『プラチナスノウ』が姿を見せてこれを眺めた。髪はプラチナ、肌も白いが、瞳だけが血のように紅い。プラチナスノウはしげしげと箱を見つめている。中身が気になるのだ。
「じゃあ開けますね」
 冬花が手をかけたところで、まゆゆがふと告げた。
「罠とか残ってなければいいのですが……」
 これまで罠などなかったのだが、三度目の正直という言葉もあって悪い予感がしたのだ。しかしこの言葉は、冬花にとては起爆剤になってしまう。
「はわわ!?」
 びっくりして思わず、彼女はまゆゆに抱きついたのだった。ぎゅっと。
「はわ、え、えとえと……」
 冬花はうろたえた。でも何にうろたえたのだろう。自分でもわからなくなっている。
 罠を予想したことに? まゆゆに抱きついてしまったことに?
 それとも、抱きついたまゆゆの体が、やわらかくていい匂いがしたことに……?
「うん、大丈夫、大丈夫ですよ。冬花さん」
 まゆゆは落ち着いた物腰で、冬花の頭をぽむぽむと撫でた。そうして冬花を離すと、
「下がっていてください。錠にに精密検査を試みます」
 箱の前にしゃがみ込み、端末のスキャン機能を起動したのである。
 ふだんはぽわぽわしているまゆゆだが、ハッカーとしての腕をふるうとき、別人のように冷静になる。サイドテールの尖端を指でいじりながら、端末に表示される数値をじっと読んでいた。
「ええ、大丈夫です」
 立ち上がり振り返ったまゆゆは、もう普段通りの彼女だった。
 箱の中身は黄金の装身具だった。アンクレットとブレスレット、そしてカチューシャのセット。
 これを身につけるのはどんな姫君なのでしょう、と冬花は思った。 
 ほんの一瞬だが、裸のまゆゆがこれを身につけているところを彼女は想像した。


●最後の宝物
 階段を上がりきったところで七枷陣は目を丸くした。
 これまでの通路とはまるで違っている。あいかわらずガラスや鏡はあるが、ずっと重厚で荘厳な作りだ。
「これは『なにかあるよ』って言ってるに等しいな。行く手には石室か……? あれは!?」
 石室中に入った陣が目にしたもの、それが、床に横たわるマンティコアと、放心したような状態で床に座っている探究者たちであった。
「ああ、終わったみたいだね……えっと、みんなお疲れ」
「毎度オナジミ、財宝回収デゴザイマス」
 変な声にぎょっとして陣が振り向くと、それは彼のアニマ、つまりクランの声だった。
「お前さんそれなんの真似だよ」
「テレビで覚えました」
「心臓に悪いからその手のモノマネはやめてくれ。おじさん歳なんだ」
 言いながら陣はその場にいるメンバーに断って、マンティコアが守っていたと思われる大きな扉に近づいた。
「さて、こっちはこっちで仕事させてもらうよ。おっとこりゃ電子錠だね」
 開けていいかい? と問うと、エルマータが「お願いします」と返した。反対する声は出ない。
「よしよし、機械仕掛けな鍵はおじさんに任せな……っと」
 かなり強固なロックがかかっていた。二重三重のパスワードもあったが、陣からすれば比較的単純なからくりだ。数分を要したものの、ついに、
「アンロック完了です、マスター」
 クランが告げると同時に、カチッと音がして扉が動いたのである。
「……!」
 蛇上治は思わず立ち上がった。
 いや、彼だけではなかった。この場にいた全員が驚きのあまり立っていた。
 冷たい風が流れ込んでくる。冷気だ。ドライアイスを炊いたときのような白い煙も。
 扉の向こうには、縦に置かれたガラスケースが収められていたのだった。
 それも、人間ひとりを収めるに十分のサイズの。
 ケースの内側には厚い布のようなものが敷き詰められており……立った姿勢で、目を閉じる少女の姿があった。
 黄金の髪、肌は淡い褐色、十六歳くらいだろうか。この世の存在と思えぬほどに美しい。身にまとっているのは、白い薄衣一枚だ。
「誰なんだ……この人は……」
 フリューゲルは肌が粟立つのを覚えていた。違和感だ。また、あの違和感が訪れていた。この世界にはありえない、あってはならないものを目の当たりにしている――その感覚に胸が締めつけられる。
 ケースの隅に刻まれた文字を読んだのは陣だった。
「『fragile』……『フラジャイル』って書いてある。こわれもの、っていう意味か……それに、『M』・『A』・『R』・『I』・『A』……マリア、か。あと、消えそうな字で小さく書いてあるこの【スレイブ】ってのはどういう意味なんだ?」
「見て!」
 ロスヴィータが声を上げた。悲鳴に近い声だった。
「【彼女】が目を開けたわ!」

 少女は便宜上、《フラジャイル》のマリアと命名された。


●約束
 ノーラ・サヴァイヴとミモザの賭は、ミモザの勝利に終わった。
 ミモザが見つけた宝箱は四つ、ノーラは、三つ。
 ノーラの見落としがちな場所からミモザが、小箱を見つけたのが勝敗をわけたのである。。
「あーあ、ミモザにはかなわないなあ……」
 ノーラはため息する。それなりに勝てる自信はあったのだが。
「ふふ、いい勝負でしたよ」
 最初は不承不承つきあったつもりのミモザであるが、やってみると結構楽しかったことは否定しない。
「じゃあ、約束だよ。ミモザのお願い、ひとつだけ聞くよ」
「ああそうでした、そんな約束がありました。お願いねぇ……」
 ミモザは完全に忘れていたので、なかなか願いを思いつくことができなかった。しばしの黙考ののち、
「じゃあ……今度この島の泉に一緒に遊びにいきませんか? 私と」
 と提案する。
 えっ、と拍子抜けしたのはノーラである。
「そんなことでいいの?」
「だったらOKですか?」
 ミモザはちらっと、甘えるような視線を向けた。
 ノーラの返答は決まっている。
「もちろん!」


執筆:桂木京介GM