●霧の中で
肌にまとわりつくような、ミルク色の深い霧が出ている。泉へ近づくにつれ霧は濃さを増し、水音が聞こえる頃には、視界を確保できる空間はごくわずかとなっていた。
無意識にうちに『鉄海 石』は、カーゴジャケットの上から二の腕をさすっている。その背にプリントされているのは、ワールズ教の紋章だ。
(体感温度は一気に数度、低下したようですね)
彼のアニマ『フィアル』が耳打ちする。だろうな、と石は短く返した。
実際、寒い。泉の下部に近づくにつれ急に寒くなった。
密林を抜けるまで真夏のように蒸し暑かったというのに、ここにきて、早い雨足の秋雨が降り去ったように冷え始めたのだ。まるで泉が、近づく者を拒むかのように。
「徒歩で調査する人は、この辺りにエスバイロを駐めたほうがよさそうね。視界不明瞭で味方機と衝突でもしたら笑えないから」
と通信に告げると、石の斜め前方を走っていた『リン・ワーズワース』はエスバイロを空中停止させた。さっと飛び降りる。湿地帯をブーツで踏む。
ずしゃ、と威勢良く、リンの背後でマシンを降りたのは『ケニー・タイソン』だ。筋骨隆々、鍛え上げた肉体は腕も脚も丸太のように太い。とりわけたくましいのがその首で、鋼鉄製の柱を想起させるほど見事なものであった。
「それにしても泉の『主』か。どんな姿か知らないがこいつは腕が鳴りそうな相手だ」
言葉を裏付けるように、両手を絡めて指の関節を鳴らす。それがまた雷鳴のような音である。肌寒い環境であるにもかかわらず、ケニーの上半身を覆うのは、ぱんぱんに張ってはちきれそうなカーキ色のTシャツ一枚だけだ。
するりとフェレットのごとく、ケニーと鉄海石の間を抜けリンの前に立った姿があった。
「リン・ワーズワース少尉とやら……さん?」
没個性的なカンナカムイのカーゴジャケットも、『メイディーンソルーベ・ライムゼルカーナー』が着るとずいぶんと色っぽい。丸みを帯びた胸元、水桃色の唇、ケモモ特有の耳ですら彼女にかかれば、アクセサリーの一種のように見えてしまう。
だがこの艶然たる登場もたちまち、ピリリリリーッとけたたましいホイッスル音でかき消されてしまった。
「メイ! 『とやら』だなんて失礼すぎでしょ! 救国の英雄様に向かって!」
彼女は『漣 (さざなみ)』、メイディーンソルーベのアニマだ。首から下げた大きな笛を吹き鳴らしたのである。
「漣、その笛……なに?」
「おっちょこちょいなメイ用に用意したの!」
と声を上げて漣はメイを黙らせると、深々とリン少尉に頭を下げた。
「うちのあほがすみません! 大変失礼な発言、アニマの私が謝罪いたします」
「え~。いいじゃない別に、一応『さん』って付けたんだし」
「てえい!」
問答無用、と漣は両足をそろえ砲弾のごとく、鮮やかなドロップキックをメイに繰り出した。アニマは物理的な存在ではないのでその蹴りは空を切る……はずなのだが、こういうやりとりが日常なのか、メイは「うっ!」とのけぞる。
これを見て慌て気味に、いいっていいって、とリンは両手を振った。
「あたしもその、妙にセレブ扱いされるの正直苦手だし。だいたい、この前の作戦は全員で力を合わせたからこそ成功したのに、メディアにあたしひとり祭り上げられたようにも思ってるし……とにかく、『とやら』でも呼び捨てでも、好きに呼んでくれていいから」
歳も同じくらいでしょ、とリンは言う。確かにそうかもしれない。けれど少年のようなリンの平らな育ちぶりと比べれば、少なくともその点ではメイに一日の長があるようである。
「わかった。改めて自己紹介するわ。メイディーンソルーベ・ライムゼルカーナー、『メイ』でいいわ。よろしく」
「リン・ワーズワース。呼び方はなんでも」
行動方針をうかがいたい、と片手を挙げたのは、モノクル(片眼鏡)をかけた紳士風の男『レイ・ヘルメス』だった。彼のかたわらにはアニマの『UNO』が、いくらか緊張した面持ちで立っている。
「【主(ぬし)】と仮称されている危険生物の存在が噂されているけど、先行調査隊の報告によれば結局現れたのは一度きりということね。だからあまりばらけずに、各自、思うような調査をお願い。泉の底にあるというフラグメント確保が目的だけど、安全が確保されるまで手は出さないようにしたいところね」
「安全優先ということか。了承した」
レイの口元がかすかに歪んだ。すぐにレイは背を向け、泉の周辺に屈むと水質を調べ始める。
「いわゆる【主】は存在そのものが未確認……その出方を探りながら調査を行うことになる。随分とギャンブル性の高い話だな」
UNOがその背に問いかけた。
「ギャンブル……ですか。兄様、不安はありませんか?」
「いや、愉しいよ」
やはり悠揚たる笑みとともにレイは応えるのである。むしろギャンブルという言葉こそ、自分の生き様に似合うと思う。
さっそく『ブレイ・ユウガ』は泉の水に手を入れ、かき回したりして反応を見ている。
「こうして挑発すればすぐ出てくるかもしれない」
思ったより水の温度は高い。温水のようだ。
最初はおっかなびっくり静かに手を動かすだけだった。しかし反応がないのを見ると、ブレイはやがてバシャバシャと、水音が立つほど派手に腕を動かしてみた。
「何も起こらないね」
水面を眺めながら、彼のアニマ『エクス・グラム』が言った。
「笛吹けど踊らず、ってやつかしら?」
と言うエクスは腕組みして立っているのである。だから水際でほとんど腹ばいになっている現在のブレイの姿勢は、彼女の足元にひれ伏しているようにも見えてしまう。
「……そんなとこに突っ立ってないで、なにかアイデア出してくれよ」
「だったら私の靴をお舐め! ……冗談よ」
エクスはからかうように笑って、
「私としては、ブレイには覚悟が足りないんだと思うわ。そんな腕だけ入れるんじゃなくて、大胆に半裸になって水に飛び込み、あげく触手につかまってあられもない姿にされ、あれこれされるくらいの覚悟がね……そう、口には出せないようなあれこれを……」
発言途中からなぜか頬を染め、恍惚とした表情を浮かべるエクスである。勢い、ブレイはつっこまずにはおれない。
「そういうのは薄い本だけでいいからぁ! というか、男子の俺がそういう目に遭うのを見たとしてお前は楽しいのか!」
「楽しい」
「言い切ったよこの人!」
●トライ&トライ
泉周辺にメンバーが散ると『エティア・アルソリア』はエスバイロに駆け戻った。
「せっかくだし水着を用意してきたわ」
と楽しげに言うなり、ばさっと豪快にシスター服を脱いで自機に引っかける。
「ちょ、ちょっと!? 寒くないんですか?」
彼女のアニマ『メルファ』は目を丸くした。エティアがシスター服の下に着込んでいたのは、きめ細かなレース飾りのついた黒いビキニだったのである。
「要は気の持ちようでしょ? ほら、メルも水着ね♪」
と言うなりエティアは、そーれ、と声も明るく泉に駈け込む。やっぱり、とエティアは思った。寒いのは周囲の空気だけだった。水温は高く、肩までつかれば気持ちがいい。
「……ああもう、仕方ないですね」
メルファもセパレート水着に姿を変えた。主人のエティアとはお揃いだがフリルの形状が違う。デザインはこれを指定したエティアの趣味である。そんなメルファをつくづく眺めて、
「うーん、水着姿の可愛い子って眼福よね……」
とエティアは相好を崩すのだ。この泉にどれだけの貴重鉱物が埋まっているかは知らないが、自分にとって一番貴重なのはメルファの存在なのだと思う。
その頃『セーレニア=シャゴット』は泉の水をすくって、持参したフラスコに入れて振ってみた。持ちあげて霧の中の弱い光にさらし、目をすがめて中身を観察する。透明度は高いが、きらきらした成分が含まれているのもわかった。フラグメント鉱の微粒子だろう。
「濃度が高い。これは期待できそうです。フラグメント……しかも大量ですかぁ……是非持ち帰って調べたいですねぇ」
できるだけ感情を抑えて独言しながらも、セーレニアは語調が強まってくるのを隠しきれないでいた。研究者としての血がふつふつと騒ぐのだ。
ところがそれを遮るように、
「あーァ……早く主を切り刻まさせろよォ……!」
と乱暴な声がした。
やれやれ、とセーレニアは嘆息せざるを得ない。双子の『アーレニア=シャゴット』だ。顔は彼女と瓜二つ、髑髏の髪飾りを、深紫(こむらさき)のロングヘアに飾っているところも同じだ。ただし瞳の色は、鏡に映したようにセーレニアとは反対で、髪飾りの位置も逆となっている。
といってもこの姉妹がもっとも反対なのは、やはりそれぞれの性格だろうか。
「触手とか超斬るの楽しそォじャねえかよォ……!」
暗い井戸の底より聞こえる谺(こだま)のようにアーレニアは言う。そして幽鬼のごとく、ゆらりゆらり不確かな足取りでセーレニアの周囲を徘徊しているのである。
「少し静かにして下さい。調査中です」
「フラグメントなんざどうでもいいだろォ……! それよりはバトルだぜェ……! バトル!」
というように会話もさっぱり噛み合わない。
姉妹それぞれのアニマはどうしているだろう。
セーレニアのアニマ『クエスチョン』は、
「……」
我関せずとばかりに姉妹の会話に加わらず、水質の分析をはじめており、
「……っ! ……っ!」
アーレニアのアニマ『アンサー』は、威嚇行為をする山猫のように、荒い息で水に剣を差し入れては抜いてを繰り返していた。(アニマのイメージ像なので波紋のひとつも起きないが)
やや離れた位置で、『ロゼッタ ラクローン』はひょうと竿をしならせ、できるだけ遠方にルアーを投げ込んだ。
大きな水音と、それにまけない大きな水柱が立つ。それもそのはず、このルアーというのは1メートルほどもある特大のものだったのである。当然、これを支える竿も糸も太い。
「釣りだね♪」
サンバイザーをかぶりゴーグルを下ろせば、即席ながら本格的な釣り人気分だ。といってもロゼッタが狙うのは、魚かどうかすらわからぬ未知の大物なのだが。
「触手があるって話だから……タコかな?」
「青色の?」
そんなタコは聞いたこともないと『ガットフェレス』は言った。主人のロゼッタとは異なり、彼女は細身のダークスーツを着こなしている。短く切り揃えた黒髪もあいまって、少女というより美男子という雰囲気だった。
巨大ルアーは軽く浮き沈みしているものの大きくは動かない。
「勝算は?」
とガットフェレスが聞いた。ロゼッタは自説を述べる。
「聞いた話だと、犠牲になった人はあっという間に引き込まれたんでしょ? ということは確かに、その【主】には力とスピ-ドはあるようね。でも、いちいち獲物を確認してるわけじゃない、って思わない?」
ほう、とガットフェレスの目が笑った。
「だから疑似餌(ルアー)というわけか……騙せるのか♪」
興味を持ったらしく語尾も跳ねている。
「ま、ものは試しよ♪」
ロゼッタも笑みを返した。なお、この釣り糸は鋼鉄を編んだワイヤーであり、その端は特注強巻ウインチにつながっている。さてこの狙い、吉と出るか凶と出るか。
目を転じてルアーの周辺を見てみよう。
この地点を目指し、水着姿で泉を泳ぐ姿があった。
「よし、たどりついた!」
息継ぎすると立ち泳ぎになり、浮かび沈みしながら『エクセル=クロスワード』は岸のロゼッタに手を振る。
「……今のところ、その化け物が出てくる気配はないが」
一度潜水して下方を見る。随分と深い泉だ。底まで見通すことはできない。
(もしかしたら、ですが)
プライベートモードで出現した『ソーラー』が、ほとんどブイのようなルアーに腰掛けた状態で姿を見せた。
(あなたは、自身を生き餌にするつもりなのではありませんか?)
エクセルは水着一つという軽装だ。ハンドアックスこそ腰にくくりつけているものの、危険のただなかにある人間としてはあまりに無防備といえよう。
「生き餌? せめて囮と言ってくれ。ロゼッタの釣り針のポイントへ誘導するのが目的だ。無茶はしない」
(そうですか……)
大きな胸がこぼれおちそうなマイクロビキニ姿ながら、ソーラーの表情はいまひとつ明るくなりきれていない。
ソーラーは、エクセルの孤独な心を知っている。だから彼が、まさか自暴自棄を起こして自身を犠牲にする意思なのではと気が気でないのだ。それはあえて、口にしないでおくのだけれど。
●触手、這い出す
岩陰が少なく、着替える場所を探すのに手間取った。
ようやく水着姿になると、「手間取りました」と言いながら『online (オンライン)』は水に入る。
「遅いぞ」
と彼女を追うのはアニマの『sample (さんぷる) 』だ。さんぷるもオンラインにあわせ、ワンピースの水着に衣装を変えている。
「こうならないよう、最初から水着は下に着ておけば良かったのだ」
「ごめんなさい、でも、おかげでバッチリ『魔法少女水着ver』という感じになったと思いません?」
えい、とオンラインは胸を張った。星とハートマークをちりばめた紫色のビキニ、派手すぎない色合いながらマジカルな雰囲気は出ている。ステッキも手にしているのでますますそれっぽい。
だがこの会話は唐突に途切れる。
このときさんぷるの体を、粘液をまとった青白いものが貫いていた。
文字通り貫いたのである。イメージ映像である彼女の体を。
突如水中から野太く青白い触手が一本、勢いよく飛び出したのだった!
つかんだ、と思ったに違いない。触手は伸びきった状態で、虚空をさぐるようにうねうねとうごめいた。
はっと顔を上げオンラインは叫ぶ。
「さんぷる! ここでサービスシーンです! さあ、水着がひん剥かれ淫獣の触手に舐め回されるという恥ずかしい姿に!」
「わかった!」
とっさにさんぷるは自分の水着の肩紐に手をかけ一気に下ろし……かけたが我に返ってすぐ戻した。
「無邪気に何を言うか! ていうかワタシに何させる気だ!?」
なお露わになりかかけた彼女の危険な部位については、同時に起こった水飛沫で都合良く隠れていたということには、しっかりとここで言及しておきたい。
「真面目に戦え!」
とさんぷるに怒られ、わかってるって、とサンプルは杖を頭上に掲げた。
「みんなここよ! 来て! 【きゃるーん☆テンペスト】ッ!」
その名に偽りなし、まさしく『きゃるーん』としか表現できないマジカルな効果音が鳴り渡り、桃色したハート型の光の輪が、力強く放射状に杖の中心より放たれたのだった。
いち早くこれに気がついたのは『フィール・ジュノ』だ。
「あれが泉の【主】ね!」
用意していたロープの端を持って走る。同時に、
「おおう! 待つこと久し、ようやく来たか鉄板シチュエーション!」
彼女のアニマ『アルフォリス』が飛びだし、両拳を握りしめて快哉を叫んだ。
「鉄板? ……ごめん、何言ってるのかわかんないんだけど」
ロープの端にゆわえた錘(おもり)、これを投ぜんとする姿勢のままフィールは怪訝な顔をする。
「知らんのか!?」
ぴしっ、とアルフォリスは右手の人差し指を立てた。
「魔法少女×触手こそは鉄板、間違いなく視聴者ウケするシチュエーションなのじゃ。あの淫らな触手は、フィールに巻きついて服だけ溶かすぬるぬる粘液とか出すに違いないぞ!」
「ええーっ! そういうのやめてほしいんだけど!」
「しかしそれこそが世の需要というもの! 服破りにくすぐり陵辱じゃ! 我はその様を撮影して売り、生活費の足しにするからの? 安心してヤられてくるが良いぞ」
「まったく安心できないよっ!!」
フィールはアルフォリスの提案を振り切るように、ロープを短くつかみ分銅状の錘をぐるぐると頭上で回してから、力を込め泉に上手投げで投じた。
狙いは正しかった。水中からもう一本触手が飛び出し、錘をはっしとつかんだのである。
「かかった!」
ロープの反対側はほとりで見つけた樹にくくりつけてある。触手はミシミシと綱を引くもさすがに樹を抜く力はないようだ。フィールは自分の胴にもこのロープを結わえてあるので、踏みしばりながらステッキの先を触手に向けた。
このときにはもう、触手は何本も飛び出していた。といっても探究者側に備えはできている。一斉に武器を構え銃を抜いては、飛び出す触手をあるいはかわし、あるいは叩きして、容易に捕まったりはしなかった。
「攻撃開始!」
リン・ワーズワースも抜刀し一撃を見舞う。思わぬ抵抗にあったためか、触手はこちらを引き込まんとするのをやめ、鞭のようにしなっては打擲の攻撃を加えんとしてきた。
「やはりいたか……敵対生物が!」
鉄海石もハンドアックスで触手に応戦を開始する。
「レスラーと打ち合いで勝負しようなんてな!」
バツッ、バツッ、と激しく打たれながらも、ケニーはこれを決してかわさない。相手の肉弾攻撃をあえて受けるのも、レスラーとしての美学だからだ。
「望むところだ!」
かっと目を見開くと反転攻勢、ケニーは軟体の触手にエルボー、チョップを次々と叩き込んだ。効いているかどうかはわからない。だが、腰の入った掌底で一撃したとき、ぐらっと触手が揺らめいたのがわかった。
「ケニー! ファイトファイト!」
彼のアニマにして敏腕マネージャー、『ナタリア・ウィルソン』はカメラを取り出し、ケニーの奮戦を撮影している。実際のところはアニマのもつ録画機能を働かせているだけなのだが、手持ちカメラのイメージをともなって臨場感を高めていた。
だが油断大敵! 優勢に立ったかと思いきや別の触手に背後をしたたかに撲たれ、ケニーは叩き伏せられてしまった。どっと湿地に這いつくばる。口の中で血と泥の味がした。背中の感覚は、あまりの衝撃に一瞬途切れた。
「ぐ……!」
「凄まじい攻撃! 泉の【主】とはよく言ったものだ。さて、怪我人だな?」
だが触手攻撃の合間を縫って、ケニーを助け起こす者があった。『間 (ハザマ) 』だ
「まだギブアップじゃないぞ……」
「わかっている。ちょっとリングサイドで止血するだけだ」
用語をケニーに合わせて、手早く間は彼を引きずるようにして後退し、応急治療を施す。
「大丈夫、これならまだ戦える! 行ってこい」
ケニーを送り出すと、間は次の患者(クランケ)を探して立ち上がった。だが、
「ちぇんちぇー!」
呼び声に振り返る。彼の足元にすがりつくようにして、アニマの『ピノコ』が彼を見上げていた。捨てられた小犬のように、潤んだ目を震わせているではないか。
「およめさんのあちしを忘れちゃやーなのよ」
「忘れたりしていない。行くぞ」
「待って待って! あちしを忘れたりしたら、あちし、触手につかまっちゃうのね。そうなったらあちしも白衣のてんしとして、触手をしょくしんするしかないのね……」
何を想像しているのか、両手を頬に当ててピノコはくねくね、恥ずかしげに言うのである。
「あちしが触手に絡まれる姿に、ちぇんちぇーもめろめろなのよね。あっ、だめだめ、これ以上はぷらベーともーどでないと言えない!」
しかし間は、あっさりと言い放った。
「アニマは、そもそも触手に触診できないだろう」
そしてまた、前線で戦うメンバーを救うべく急ぐのである。
「あー! ちぇんちぇー!」
ピノコは彼の背を追っていく。
◇◇◇◇ ここで、小休止 ◇◇◇◇
激闘がはじまった泉の下部を離れ、場面を泉の上部に移そう。
下部での状況がまるで嘘、ここに一切の霧はなく、それどころか雲間から明るく熱い陽差しまでのぞいていて、椰子の木揺れる常夏の島のようであった。もちろんここは泉であって海ではないが、それでも、波のさざめきやカモメの声も聞こえてきそうだ。
「底の方は危険そうだから浅瀬から調べましょう」
ちゃぷちゃぷと水に素足を浸し、セクシーな黒いビキニ姿の『ステファニー』は水辺を走る。手は緩く握る程度、腕の振りだって横に広げ気味、いわゆる女の子走りというやつだ。きらめく太陽に光る肌、それでも彼女は笑顔満面というわけではなく、ずっと何かを探しているような表情だった。
「クラリス、いる~?」
同デザインの赤い水着姿、どこかぎこちなく、両手で胸を抱くようにしてぽつぽつと、アニマの『クラリス』がステファニーについてくる。クラリスは返事をしないが、自分を見上げてくるその視線を見ているだけで、ステファニーは満たされた気分になった。
「ほらほらー、魚がいるよ、クラリス、つかまえようよ!」
ステファニーはすっかりバカンス気分のようだ。えーい、と素潜りして、綺麗な黄色をした魚を追いかける。
「クラリス、そっちに魚が行ったよ。上手に追い込んでね」
クラリスはといえば、とがめるような視線でステファニーを見ている。まるで、「遊ぶなんて不謹慎!」と言うかのように。
「大丈夫だよ! これだって調査だもん! 水草とか魚から何か分かるかもしれないし」
そう言われて納得したのか、クラリスは手を広げて魚を追うポーズを取った。魚はそれを見て驚いたか、Uターンしてステファニーの手に収まったのである。
「もっとたくさん取ったらバーベキューにして食べようね~」
魚の正体も調べず食べて大丈夫なの? と言わんばかりのクラリスの表情を見て、ステファニーはなぜだかおかしくなって笑い出した。
『朔代胡の枝』も水着姿だ。色はエメラルドグリーンで、競泳水着のような流線型デザイン、すらり美脚をさらして泳いでいる。
実際に泳いでいるわけではないが、アニマの『カメリア』もその横で浮いたり沈んだりしていた(と、いうイメージを映し出していた)。
「敵の行動、予測遭遇時間を計算中……おかしいですね、やはり遭遇の可能性が出ません」
カメリアは冷静にそう告げるが、胡の枝としては驚くことではない。
「えー。カメリアちゃんまだそんな心配してるのー? こーんなに平和な光景だし、大丈夫だと思うんだけどなー」
と言って彼女は、背泳ぎの姿勢で空を見上げた。フラグメントが水没しているからなのか、よく浮かぶ。
「いいえ。油断こそ最大の脅威ですわ」
こう返事しつつもカメリアも胡の枝にならんで、水に背を預け空を見上げる格好となった。
「ところでコノエ、彼はどうしました? 一緒に来るはずでは?」
「え? あー、どうしたんだろうねえ」
「せっかくだからお聞きしますけど、彼との関係は?」
「いきなりなんの話よ突然」
「なんの話でしょうね……? ところで、警戒はおこたりなく。油断こそ最大の脅威ですわ」
「それもそっか。おっけ!」
ゆらゆらとバカンスを楽しみながら、ガールズトークに花を咲かせる。
とてもとても、平和な光景であった。
トレジャー・アイランド最大の泉、その上部はまるで別世界だ。
◇◇ 小休止、終わり ◇◇
●俺と【主】でそそらそら(それは嫌だ!)
そして泉の下部はやっぱり……戦場だ!
何十本生えているというのか、大小長さもまちまちながら、一様に水色で一様にねばねばした、気味の悪い触手が後から後から水中より飛び出している。
バランスなど失ってもいい、ブレイは全体重を乗せ倒れ込む。ただし剣を下にして!
青白い触手がぶつりと切れた。ブレイはただの一撃で触手を両断したのである。
「やった! 切った! 薄い本、回避!」
と思いきや彼の足首に、まとわりつくはにゅるりとした不快感、冷たいが脈打っている。それは、斬ったのとは別の触手であった。倒れているからそのまま、触手は彼の膝から腰へと這い上がっていく……!
「ううっ、しまった……薄い本は嫌だ……!」
だが大丈夫、
「つかまって!」
救いの声、それは頭上から聞こえた。エクスがエスバイロを運んで来てくれたのだ。ブレイが手すりにつかまるや、飛空艇は急上昇して触手を引き剥がし、彼の窮地を救った。
「ま、薄い本展開も見たかったけどね」
エスバイロに同化したままエクスはにやっと笑った。ブレイは黙って首を振った。
この触手には、真上から叩きつける斬撃が効果的――この事実に気づいたのはブレイだけではない。
「こっちの方がいいですよ」
フィアルが呼びかけた。乱戦のなか彼女は、鉄海石のため戦いを観察していたのだ。
「こっち……?」
「そう、どうせなら上から叩き斬るって方法がいいと思うんです」
「薪割りの要領か!」
フィアルの助言ならためらわず実行する石だ。両手でしかと剣を握り、頭上に振り上げ振り下ろす!
爽快な手応え! 見事、石は触手を叩き斬った。
「皆にも知らせよう!」
石のすぐそばにいるメイディーンソルーベ・ライムゼルカーナーに、たちまちその情報は伝わった。
「有力な情報ありがと!」
メイは鉄拳を握りしめる。足元にからみつく触手を狙う。地と垂直に、地面ごと割る勢いで叩きつける!
「よし、あとは突っ走るだけ!」
「って! メイ!」
すぐに漣が声を上げた。
「いきなり突っ走ったら味方の足並みが狂わない!? 迷惑がかかるでしょ!」
両腕をひろげメイをとどめようとするもすでに遅しだ。
「って……もういない……」
ほとんど暴走ブルドーザー! メイは拳を振り回し猛然猛襲、触手を真上から撲って撲って撲ち抜いて、叩いて叩いて叩き潰していく! 水から出かけた触手も、メイの姿を見るなり逃げる勢いだった。
メイのアニマ漣は足並みが乱れることを危惧したが、むしろこれを好機と判断した探究者があった。
レイだ。そう、モノクルの奥に鷹の目を宿したギャンブラーことレイ・ヘルメスである。
「後方から見れば全体像が見える……今こそ、千載一遇の機であろうよ」
口調こそ静かだが、胸の内には相場師の魂が燃え上がっている。レイがこの機を見るなり倍プッシュの大博打に出たのも、けだし自然の流れであった。
レイはUNOを引き連れ、指揮官リンのところへ馳せる。
「ワーズワース少尉、全軍総攻撃の指令を下したまえ。空虚なセレブ扱いがお嫌なら、せめてその勇名で軍を動かすべきと思わんかね?」
いささか挑発的な口調でレイは呼びかけた。無論これは計算済みのこと、
「わかった! やればいいんでしょ! やれば!」
短気なリンは大声で、レイの思惑通り号を発したのである。
「敵は怯んだ! 全軍総攻撃に入って!」
「その意気だ」
ふっと笑むがレイも血がたぎっている。後方支援にとどまらない、自身、積極的に触手への攻撃を開始した。
リンの声に刺激され、
「さぁ! 手あたり次第に行くわよ!」
まっさきに前進したのは、フリル付き黒ビキニのエティアだ。触手の攻撃が水着にのびるも、逆にこれを蹴りつけて空中回転、軽業師のように着地まで成功させている。
「まさか成功するなんて自分でも思わなかった……っ!」
ブルッとエティアは身を震わせた。まさか私って天才? アドレナリンが爆発したのか声が出てしまう。
「悔しい……けど感じちゃうっ!」
「ちょっとエティア、はしたない! あと、なにが『悔しいけど』なんですか!?」
「わかんないけど、ここはこう叫ぶのが定番と思って」
「だからなんの定番ですか!」
アーレニア=シャゴットが、この情勢を心ゆくまで楽しんでいるのは言うまでもないだろう。
「キヒヒッ……たまらねェなァ! 斬るぜ斬るぜぶった斬るぜェ! KILL! KILL!」
短剣が閃く。閃いて斬る。また斬る。感極まって滅多刺し! まるで修羅あるいは狂戦士、アーレニアの往くところ、千切れた触手の山が築かれてゆく。
アーレニアの周囲を死の天使のごとく飛び回り、自身刃を振り回しているのはアンサーであった。アンサーの攻撃は映像ゆえなにももたらさないが、その殺戮のイメージが、味方の士気をいや高めた。
「アーレさん……私が調べてる間はよろしくお願いしますよお?」
アーレニアの背中にぴったりとついて、セーレニア=シャゴットはぶつぶつ呟きながら、触手のサンプルを拾ってはケースに詰めて採取していた。
「これも何かの役に立つかもしれませんしねぇ……ねぇ、クエスチョンさん?」
「……え?」
クエスチョンは訊き返した。
「なんの話ですか? 僕はこの興味深い事象が気になって調べているところで……この触手の本体はどこなのか……存在するのかしないのか……」
クエスチョンはまた、思索の世界へと帰って行った。
「ほれほれ、もっと悩ましく喘ぐのじゃ♪」
「……ああっ! ぬるぬるして気持ち悪いっ! っていうか、助けてよ!」
フィール・ジュノは快進撃を続けていたのだが、ちょっとした拍子に転倒し、アルフォリスの期待(!)通り触手に絡みつかれていた。体をまさぐられ愛欲の地獄へ……墜ちるようなことはもちろんなく、透明な粘液べたべたになって転げ回っているだけである。
「待て待て、もう少しエッチぃ声を出せば考えんでもない」
「そーゆーリクエスト禁止! こんなの見て喜ぶ人いるのっ!?」
フィールの叫びに応える声があった。それはピノコだ。
「触手に絡まれる姿に、めろめろになる人もいるのよさ。ちぇんちぇーとか」
「おい! 虚報を流すな!」
ピノコの宿主、「ちぇんちぇー」こと間は、誤解だ誤解だと叫びながら注射器を触手に突き刺し、フィールを救った。
「あ、ありがとうございました」
「なぜか君のアニマは不服そうだが……良かったのだろうか」
「良かったです! とても良かったです!」
思わずフィールは涙目になる。
水辺で何度目かの『きゃるーん☆テンペスト』を放ったオンラインは、突然水から上がってきた巨大な半月型の存在に息を飲んだ。
「クラゲ……だよね?」
水があふれる。煮立ったかのごとく無数の泡を立てどっとあふれ出す。相当数触手を叩き切られ怒りを覚えたか、ざばっと出現したのは触手の主と思わしき頭部だった。サイズこそ規格外はなはだしいものの、たしかにクラゲのそれに似ている。目や口らしきものはなく、水色の頭部をぬらぬらと輝かせていた。
「【主】はタコじゃなかった、ってことね!」
さんぷるに用意させたエスバイロに、オンラインは飛び乗って急上昇した。
「任せろ!」
俺の出番だとエクセル=クロスワードは、巨大ルアーにまたがって声を上げた。
「こんな骨なし野郎が【主】だったとはな! 冗談きついぜ!」
わざと挑発するような言葉を使い、クラゲの注意を惹きつけようとする。それまでオンラインに向いていたクラゲの注意は逸れ、エクセルの計算通りにルアーに絡みついた。もう触手がないのだろう。本体で直接ぶつかっている。
「ロゼッタ! チャンスだ!」
エクセルは叫ぶなり、ルアーの上から大きく飛んだ。
頼む――祈るような気持ちで両腕を伸ばす。
「お待たせしました!」
エクセルの眼前に、ソーラーがシンクロしたエスバイロが飛び込んでくる。
エクセルの腕は、なんとかそのハンドルをつかんでいた。
その瞬間である。
「このワイヤーね、電流が流れるんだよね」
ルアーはワイヤーにつながっており、ワイヤーの端にはロゼッタが、高電圧魔法をかけられるよう待機していた。
「……付近の皆様、水に触れないよう注意してね!」
ロゼッタは魔法を流した。
一瞬の雷光。一瞬、ただ一瞬だった。
しかしそれで十分だ。クラゲの頭は破裂し、黒い煙を噴き上げたのである。
泉の底に大規模なフラグメント鉱が発見されたのは、それから間もなくのことだった。
執筆:桂木京介GM