リザルトノベル
数年の月日がまたたく間に流れた。
その間、アビスの動きは驚くほど小さく、凪の海を思わせるほどだった。むしろわずかな後退すら観測されている。微弱な、樽詰めのウイスキーが蒸発する程度ではあるが脅威は減ったのだ。
かくて空に暮らす人々はようやく、世界の安定を楽しむ余裕を得たのである。
季節は夏、といってもまだ、梅雨の明けきらぬ蒸し暑い早朝だった。
雨戸をからりと開き、【ブレイ・ユウガ】は空を眺める。
数日ぶりだ、こんなに晴れたのは。
昨夜は随分降ったので庭は濡れそぼち、石灯籠にも水が溜まっているものの、胸がすくような青空だった。
潮(うしお)邸、かつて剣術道場があった武家屋敷。
全盛期には住み込みの門弟を含め二十数人が寝起きしていたというこの場所だが、現在ここに暮らすのはわずか四人だ。
ブレイとその妻【綾 潮=ユウガ】、ブレイのアニマ【エクス・グラム】、綾のアニマ【寿限無】である。
決戦の日(現在では【暗流(Dark Flow)】と呼ばれている)を終え、ブレイと綾が戻ったのはこの屋敷だった。直前の一夜を共にして以来、ブレイはずっと屋敷に寝起きしている。
ブレイと綾が正式に祝言を挙げたのはその数年後、ともに成人してからのこととなった。互いが互いに責任を取れるようになってからにしたい――そう述べたブレイの考えに綾も同意したのだ。
ブレイの背後で襖が開いた。
「おはよう、いい天気ね」
綾だった。年齢とともに美しさを増しており、まだ二十歳そこそこだというのに、目線には睡蓮のような艶やかさを感じさせる。
綾は涼しげな麻の着物姿だった。白地が目にまぶしい。
影響されて最近はブレイも和装で過ごすことが多くなり、現在も紺絣の着流しを着ている。
さきに、この屋敷に暮らすのは四人と書いたが訂正しておきたい。
正確には五人だ。綾に宿った新しい命を含めれば。
綾はすでに安定期と呼ばれる段階に入っており、最近では体調不良を訴えることも少なくなった。この分であれば約四ヶ月後には、屋敷に賑やかすぎる日々が訪れることになるだろう。
「また大きくなったと思う。触ってみて」
綾が示した腹部に、ブレイは手のひらを乗せた。
「そうだな、そんな気がする」
ほの温かい綾の腹部、その内側にいる生命のことを思うと、ブレイはひとつの念に突き当たらずにいられない。
俺、父親になるんだな――。
人並みな感慨かもしれないが、事実だ。
時代はつねに流転を繰り返しているが、ブレイもまた、さまざまな時期を経て現在にいたる。
純粋に探究者に憧れ、高すぎる理想に燃えていた時期がある。
アカディミアに入学するも同輩たちの綺羅星のような才能に圧倒され、まぶしさのあまり無気力に陥った時期もある。
そればかりか、なかば捨て鉢になり現実逃避に走っていた時期すらあるのだ。
だが実際に探究者となり世に出て、幾多の戦いを経たことでブレイは、己のできること、すべきことを知っていった。これこそは彼の学びの時期だった。
なかでも大きかったのは、綾との出逢いだ。
とらわれていた闇から綾を連れ戻し交流を深めていったのは、ごく客観的に言っても恋の時期だったといえよう。
恋は愛へと成長を遂げ、そしていま、ブレイはまだ見ぬ我が子を待ちわびている。
いよいよ人生が新たな時期に入ろうとしているのだ。
不安はあるが、それ以上に幸せだと思う。
「名前……」
ぽつりとブレイは切り出した。
「考えてるんだ」
おや、というように綾は小首をかしげた。剣を握っているときは白虎のような綾も、このときは小鳥のようだった。
「ちょうどその話、しようと思ってた」
綾は言った。
「でも案はないの、あったら聞かせて」
考えたんだが、とブレイは言う。
「男なら始(はじめ)、女なら初(うい)はどうだろう」
綾にうながされて続ける。
「意味は、色々と変化した時代に生まれる初めの世代だから……というのは建前で、どうしてもこの名前が頭から離れなかったからかな」
理由はわからないんだけど、と言い括った。
要するに「なんとなく」ということになってしまう。でも事実なのだから仕方がない。反対されるかも、と小さな不安が胸をよぎった。
杞憂だったようだ。
「いいじゃない」
綾は嬉しそうに同意したのである。
「どちらも気に入った。すごく! そうしましょう」
子はすでに、エコー検査で性別がわかる状態である。けれどブレイと綾は、あえて性別は知らぬまま誕生の日を待ちたいという考えで一致していた。
先の楽しみとしたいのだ。
赤子は始となるか。
それとも初が産まれるか。
いずれであれ大切に育てたい。
自分たちが【ラストエイジ(最終世代)】ならそれでいい。終わったものならまた始めればいいのだ。これからの時代をになうのは、ふたたびはじまる第一世代(ファーストエイジ)となるだろう。
「はじめ、と言えば」
懐手してブレイは言う。
「なにか思いだしたの?」
「綾と出逢ったときのことだよ」
「ああ……」
「まさかあそこから今の関係になるとは思わなかった」
「まさかね」
秘密の隠し事をしているように、ふたりは笑み交わす。
ブレイは、綾とは敵同士として相対した。アビスの害毒に支配された綾と、比喩ではなく本当に剣を交え命のやりとりをしたのである。虚を突く格好で彼女には勝利したが、危うい局面も多々あった。
「第一印象としては最悪に近かったんじゃないかな」
と言うブレイに、まあ、良くはなかった、と綾は笑った。
「けれどなぜ、その後会いに来てくれるようになったの?」
「最初は、怪我をさせたこと、あんな結末になったことの罪悪感があったと思う」
ここで少しだけ間を開けて、いくらか気恥ずかしげにブレイは言った。
「でもその後、綾の色々な面を見ていたらいつの間にか惚れていた」
いくら結婚したといっても、こんなことを打ち明けるのはちょっと照れくさい。
へえ、と綾はうっすらと目を細めた。
久々の晴れ間がのぞいて、いささか開放的な気分になっていたのかもしれない。綾は、彼女にしては珍しくブレイに身をすり寄せ尋ねたのである。
「じゃあ、どうして私に惚れてくれたの?」
そんなこと訊くか! ブレイは飛び上がりそうな気分だ。ストイックと言えば聞こえはいいが、やや堅物すぎるきらいのある普段の綾なら、まずこんなことは口にしないだろう。
けれど大切なことだと思うし、胸の内を明かすいい機会だとも考え直した。
綾の他に聞いている人もいないのだ。言ってしまおう。
「凛とした佇まいが綺麗だし真っ直ぐな性格も好きだけど、照れたり喜んだ顔が可愛いのも魅力的だし後は……」
堂々と語るつもりだったのに、スポンジでできた歩道を走っている気持ちというか、言葉の後半は少々浮き足だってしまった。それでも綾への気持ちを余すことなく口にできたと思う。
「だから綾こそ俺の運命の女性だと思ってる! ……こんな感じでいいだろうか」
真っ正面から讃えられたためか、綾もさすがに紅潮していた。
「うん、合格。……ありがとう」
それだけ言うのが精一杯、と下を向いてしまう。
綾の背にブレイは腕を回し、その耳朶に口を寄せる。
「色々あったけど、綾と一緒になれて俺は幸せだ。
この先何があろうと、綾もその子も、皆を絶対幸せにする。
……だから、末永くよろしくな」
綾はこくりとうなずいた。
彼女の内側、胎内からも、かすかな反応が返ってきたような気がした。
「あと、教えてほしいんだ」
「なにを?」
「逆に綾が、俺を好きになった理由」
えっ、と綾は身をよじる。困ったように、
「全部」
と言った。
「全部?」
「そう、ブレイが私にしてくれたこと、そばにいてくれること、その全部。今だって――」
綾はそれ以上の問答をする気はないようだ。自分から、ブレイの唇に吸い付くようにして接吻する。
ブレイは応じる。綾の着物の帯に手をかける。
はらりと帯が落ちた。衣服も。
綾の白い肌があらわになる。束ねていた髪が、解けた。
……。
◇ ◇ ◇
畳敷きの別室で、エクスと寿限無は膝をつき合わせて正座している。
両人ともスレイブ、すなわち、実体の姿だ。
なんだか姑の気分、と内心思いつつエクスは寿限無に言い聞かせる。
「赤ちゃんが生まれたら綾はその子にかかりきりになるけど、それでも綾にとってあなたは大事な存在よ。だから、あなたも綾が大切にしてる赤ちゃんを大事にしてあげてね?」
こくこくと寿限無はうなずいた。無口な彼女はあまり声を発しないが、ちゃんと話を聞いていることをエクスは知っている。
よろしい、と言ってからエクスは問いかけるのだ。
「ところで寿限無ちゃんは弟か妹、どっちが欲しい?」
ぱあっと花が咲いたように寿限無が笑顔になった。どうやら寿限無には寿限無なりの希望があるらしい。
その日の訪れが待ち遠しい。
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・スポット番号:8
場所は潮綾の家
・時系列は最終決戦から数年後
・状況
潮綾:決戦後は完全にブレイと同棲
ブレイの意向で互いに成人してから結婚
現在は第一子を宿してる
エクス:スレイブ化する道を選び、綾に料理を教えたりブレイに育メンの心得を教えたりとサポート役(姑)になる
今は家で二人きり
綾のお腹の子の成長を喜びつつ、子供の名前の話をする
個人的に男なら始(はじめ)、女なら初(うい)はどうだろうと提案
意味は、色々と変化した時代に生まれる初めの世代だから……というのは建前で、どうしてもこの名前が離れなかったから
初め、といえばで自分達の出会いを思い出し、まさかあそこから今の関係になるとは思わなかったと白状
でもその後色々な面を見ていたらいつの間にか惚れていた事、惚れた部分をつらつらと述べたり、逆に綾がブレイを好きになった理由を聞き出す
それから綾を抱き寄せ、改めて幸せにすると告げ、綾のお腹を気遣いつつ愛し合う
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依頼結果
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