プロローグ
その男は、ある種の冷気をまとっていた。
実際に温度が低いのではない。しかし彼が部屋に入った途端、一気に室度が下がったように君たちは思う。
「デレルパレル特佐、【ガウラス・ガウリール】である」
白髪混じりのダークヘア、浅黒く精悍な顔立ち、上背のある体躯、眉間に刻まれた深い皺など、彼を印象づける要素は少なくない。
だが、もっとも印象的なのはその眼であろう。彼は細い横線の引かれた遮光ゴーグルをかけているのだ。過去、戦場で網膜に深い傷を受け、ためにこれを着用しているのだという話が伝わっているものの、ガウリール本人が多くを語らぬこともあり、この情報とて憶測の域を出ない。
彼に関しては黒い噂が絶えない。
一部の有力空賊とつながりがあるとか、事故に見せかけて政敵を葬ったとか、不正着服した資金を背景に人事に口を出すとかいった、出所不明の情報が頻繁に囁かれている。最近に限っても、ブロントヴァイレス戦役で一躍脚光を浴びるようになった【リン・ワーズワース】少尉の昇進を阻んでいるのが彼だと言われていた。
そのガウラス・ガウリールが君たちの前にいる。
君たちのほぼ全員が、彼を直接目にするのは初めてだった。
「今回招集をかけた目的、それは【アビス領域】への調査隊派遣にある」
――アビス領域。
この名が出たと同時に、冷水を頭から浴びせられたような気になる者もいただろう。
誰もがよく知っているだろう。この世界、すなわち、空を往く超巨大飛空船軍(旅団)の遙か下方には、【アビス】と呼ばれる虚無の闇が口を開けているということを。アビスは徐々にだが確実に拡大を続けており、いつの日かすべての旅団がこれに呑まれ滅亡すると考えられている。
これにとどまらず、アビスは常に【ヴァイレス】と呼ばれる異形を産み落とし、これをもって人類の世界を滅ぼさんと直接・間接を問わぬ攻撃を繰り返していた。
アビス領域とは、このアビスと空との接点、いわば滅亡の縁に立つ世界の最前線である。
「ブロントヴァイレス戦役以来、一時的に沈静化していたアビス領域が、このごろ活発化しているという観測情報が入っている。ここで結成される調査団は少数精鋭、ここにいる人数だけで秘密裏にアビス領域の限界にまで降下し、可能な限りの情報を集めるものとする」
深淵に触れられるまで接近し、可能な限りの情報を持ち帰ること、それが本作戦の使命だ。
「領域付近で撮影された写真だ」
一枚の写真を、ガウリールはテーブルの上に置いた。
写真の精度は荒かった。アビスの霧が発生していたためか、カメラの調子が狂ったというのだ。
不鮮明なその写真には色調がない。モノトーンに近い。
写真がとらえたもの、それは生物らしき黒い影だった。魚類のエイに似ていた。エイが水中でそうするように、長い尾を引きながら黒く大きな翼をはためかせているように見えた。
「領域すれすれを、これが複数飛んでいるという。害意があるかどうかは不明だ。しかしどう見てもアビスが生み出した眷属だ……こちらに気がつけば襲ってくる可能性はある」
仮に戦闘になったとすれば、これほど不利な状況での戦闘もないだろう。うかつに高度を下げようものなら、それこそアビスに真っ逆さまだ。エイが攻撃をかけてきた場合、軽度の損傷でも受けようものなら、やはり同じ運命をたどるかもしれない。
「このエイ(マンタ)が敵対生物なら、交戦してデータを取ってほしいとも考えている」
調査方法は各人に任せる、と特佐は言った。
「領域近くまでは私が旗艦で送っていく。そこから領域をめざし、各自エスバイロで降下してもらう。アビス領域の調査撮影を行い、撮れたそばからデータをアニマ通信で旗艦に送れ。生物と交戦になったとすれば可能な限りの空戦を行い、やはり記録を送ること。どんな危険物質を含んでいるかわからん、サンプル採取は必須ではない」
なお本作戦には制限時間を設けるという。
「作戦時間は60分限定とする。長時間の滞在は危険だ。作戦終了時刻を一秒でも過ぎれば、たとえ戻れないエスバイロがあろうとも旗艦は領域付近から離脱する」
作戦は志願制だ、とガウリールは言った。命の保証はない、とも。
君は志願するだろうか?
このときガウリールはさりげなく、見込みがある者にだけ声をかけたつもりだ、と告げた。
解説
再活発化を開始したアビス、その深淵の世界を目撃するエピソードです。
黒い虚無の中に見えるものは何でしょうか?
ある人はそこに絶望の未来を見るといいます。
過去の悲惨な記憶が映るという説もあります。
アビスメシア教団員のように、そこにあるのは救いだと主張し、これをあがめている人たちもあります。
アビスにギリギリまで迫って、そこにあるものを目撃しましょう。
あなたがアビスに見るものは……?
世界の真相に近づいていくエピソードとなりますので、難易度は高めです。
●想定されている敵――『マンタ』について。
黒く大きなエイ状の存在です。大きさは全長三メートルほど、大きなものでは五メートル近くなります。
速度はそれほど早くないようです。しかし、尾の一撃だけは素早く、また強力です。
ブロントヴァイレスと同様にアビスから生まれた生物ですので、物理的、魔法的な攻撃は通用するものの実体がありません。倒すと黒いガスのようになって四散します。
●アビスの霧について
アビスに近づくと発生する謎の現象です。エスバイロ同士の通信に支障を来したり、レーダーを含む電子機器類が働かなくなったりします。
物理武器、魔法はもちろん、火器には悪影響はないようです。
●ガウリール特佐について
油断ならない人物です。彼が「作戦終了時刻を一秒でも過ぎれば、たとえ戻ってこないエスバイロがあっても旗艦は領域付近から離脱する」と言った意味をよく考えてみて下さい。
なお、ガウリールの専用旗艦(全員のエスバイロを搭載できる規模の飛空艦)は『ドラゴンフレイム』という名称です。
ゲームマスターより
桂木京介です。
色々と黒い噂のある人物、ガウラス・ガウリールの命を受け、活発な拡大化を始めているというアビスの最前線を調査します。
マンタとの戦闘は避けられないでしょう。
そればかりかあなたはアビスの中に恐ろしい未来が見えるかもしれません。
アビスはあなた、あるいはアニマに、『過去を見せる』『幻想を与える』などの悪影響を及ぼすかもしれません。そういった不調を体験したいというかたは、遠慮なくアクションプランで書いてみて下さい。(※それが直接の原因となって作戦が失敗するような展開にはしないつもりです)
アビスが思わぬ被害を与える可能性は否定できず、そもそも、ガウリールという人物もどこまで信用していいのか疑わしいところがあります。
それでも挑戦するという勇気ある探究者を募集したいと思います。
それではまた、リザルトノベルでお会いしましょう!
アビス領域 エピソード情報
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担当 |
桂木京介 GM
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相談期間 |
7 日
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ジャンル |
シリアス
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タイプ |
ショート
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出発日 |
2018/3/18
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難易度 |
難しい
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報酬 |
通常
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公開日 |
2018/03/27 |
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◆準備 空域到達時、『ドラゴンフレイム』からの移動時間=帰還時間を大雑把に計算。 忘れないようタイムリミット10分前を目安にアラームをEST-EXに頼んでおく。 (機能がなければ普通に携帯電話や時計で) ◆行動 「作戦を確認します。出撃より60分以内に帰還、ですね?」 ガウリール特佐には依頼への信用はしていく。 (他人を道具扱いとかでも、上手く道具として使ってくれるなら問題ないわけで…) アビス接近時は慎重に。マンタがどのタイミングで反応するか、積極的に攻撃してくるかを確認。戦闘は仲間や自分が襲われた時の専守防衛で。 離脱時間が近づいたら皆に警告。万一、離脱できない人が出た場合は…敵を引き受け殿に
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危険だろうがなんだろうが地上を目指すならば、いつかはアビスの向こう側へ行かねばならんのだ。 今はその時ではない…が、そのいつかの為にも取れるだけのデータは取っておきたい。 あの男…ガウラスは少なくとも今は信用できるよ。無論、次もそう言えるとは限らんが… 奴に僕らを消す意味もないし、出来る限りで必要なデータはよこしている。 60分というのも根拠のない数字ではないはずだ。 通信が使えない。各自の距離は視認できる範囲に。 マンタと接触したらチャフやバンも駆使しこちら側への攻撃を少しでも抑えつつ攻撃を加える。 数を集めてそうならば逆効果になるやもしれんが…それは行ってみなければわからんな。何しろ未知のことだらけだ。
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今回は危険な任務で責任者はきな臭い 正直帰りたいが、これが俺らの本来の仕事だし真面目にやらないとな 出発前に作戦終了時刻10分前になったら何があろうと帰投するようにエクスに頼む 現場に到着したらエクスにデータ送信と周囲の警戒をしてもらう その間にアビスの撮影したり霧のデータを可能な限り取ったりとできる事を探して調査 マンタと遭遇したらエスバイロを最大加速させて即座に離脱 追ってきたらエクスに制御を任せてから【スタンダード】を使い【ソニックエッジ】を放って迎撃して怯ませる 可能なら他のメンバーが狙われないよう囮になる 本格的に追い込まれそうになったら【オーバーチューン】を使って対応。そのまま帰還する
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参加者一覧
リザルト
●『領域』へ
高度が低い。その事実は計器の数値ではなく、皮膚感覚で理解できた。
自分たちが、ワインボトルの底に溜まった澱(おり)になったかのように思う。
旅団は遙か上方だ。超巨大飛空挺というのに、その機影はほとんど豆粒だった。
風が冷たい。その冷気を肺一杯に吸い込んでから【ヴァニラビット・レプス】は告げた。
「作戦を確認します」
ヴァニラビットは、愛機レッドスプライトIVのシートに収まっている。背筋を伸ばし、背もたれはつかわない。握るハンドルの、適度な堅さが快い。
「出撃より60分以内に帰還、ですね?」
「間違いない」
アニマ【EST-EX(イースター)】の通信回線に乗って、指揮官【ガウラス・ガウリール】特佐の声が入ってきた。低いが聞き取りやすい声だ。
「改めて確認しておく。作戦時間を過ぎれば」
「置いて行く、ということでしたね。了解しています」
イースターはちらりとヴァニラビットを見た。しかし、何も言わなかった。
このとき通信に、ガウリールではない声が挟まった。
「視界クリアー、いつでも発艦可能です」
ガウリールの副官【ニコラス】という少尉のものだった。強面のガウリールとは対称的な、少年のような容貌だ。まだ昇進したてだという。
「ありがとう。じゃ、行ってくるわね」
無事をお祈りしています――というニコラスの声を聞きながら、ヴァニラビットはアクセルを力強く回した。
飛空旗艦【ドラゴンフレイム】の船体は赤銅色、焔のごときその甲板より、三機のエスバイロが立て続けに飛び立つ。旗艦は表面積が大きく、これ以上の降下は危険だ。ドラゴンフレイムが存分に落とした高度の、さらに下方をここから目指すのだ。
正直帰りたいが、という言葉は胸にしまって、【ブレイ・ユウガ】は僚機に通信を入れた。
「どう思う?」
「作戦についてか、それとも、ガウリールについてか」
どこか醒めたような【メルフリート・グラストシェイド】の声が返ってくる。
「両方……かな」
「作戦について、僕の見解はシンプルだ。危険だろうがなんだろうが地上を目指すならば、いつかはアビスの向こう側へ行く必要がある。今はその時ではない……が、そのいつかのためにも、取れるだけのデータは取っておきたい」
鋼色したメルフリートの髪が風になびいている。メルフリートはゴーグルを上げた。心なしかこのアビス領域は雲の色すら昏(くら)い。
「ああ、これが俺らの本来の仕事だし真面目にやらないとな」
ブレイは咳払いした。
三匹の蜻蛉(トンボ)のごとくエスバイロは編隊を組む。
アビスを海にたとえるならば、凪ぎの状態といっていいだろう。その表面は鏡のごとくつややかで、乱れ一つ確認できない。奇妙な美しさがある、と言えた。しかしそれは、顕微鏡で拡大した結核菌が美しく見えるのに似た、本能的な懼(おそ)れをブレイに抱かせもした。
「潮 綾(うしお・あや)たちに取り憑いていたものがあれなんだよな……」
ぽつりとブレイはつぶやく。そういえば、しばらく綾を見ていない。
「それで、特佐については?」
どう思う? と問いかけたのは、ブレイではなく彼のアニマ【エクス・グラム】だ。すでにドラゴンフレイムとの回線は切れている。ゆえにか、エクスの声色は、特佐への不信感を隠そうともしてしない。
「あの男……ガウリールは少なくとも今は信用できるよ。無論、次もそう言えるとは限らんが」
メルフリートが答えた。
「奴に僕らを消す意味もないし、出来る限りで必要なデータはよこしている。60分という作戦時間も、根拠のない数字ではないはずだ」
そうね、とヴァニラビットの声も加わった。
「大丈夫よ、油断ならない味方なら慣れてるわ」
このとき彼女がイースターを一瞥したので、イースターのほうは、
(どういう意味です?)
というかのように皮肉に口元を歪めてみせた。
「まあそれは冗談にしても」
ヴァニラビットは続けた。
「特佐が、他人を道具扱いするタイプだとしたらなおさらね。上手く道具として使ってくれるなら問題ないわけで……」
それきり彼女は口をつぐんだ。
ザッハトルテの表面のようだったアビスの表面が、ふつふつと泡立ち始めたのである。
●蠢動
「って、おい! 沸騰してる!?」
ブレイは息を詰めエスバイロをその位置に踏みとどまらせた。
エクスは瞬時に分析を終え、データを記録している。
「沸騰とは違うようね、熱は検知できない」
と告げたのち、エクスは意味深な笑みを浮かべてブレイを見た。
「熱はないけど煮えたぎっている……なんだか恋煩いに似てると思わない?」
「って、出し抜けに何の話だよ」
「何の話かしら?」
エクスはくすくすと笑った。
「そういえばさっき、『潮 綾』って名前がブレイの言葉にあったものでね~」
「どうしてそこで綾の話が出てくるんだ!」
しかし今日、エクスの茶化しは控えめだ。ところで、とすぐに口調を戻して、
「もうちょっと近くでデータを取りたいな。もっと降下できる? 恐いなら、私に操縦権を譲ってくれてもいいけど?」
「恐い? バカ言うな。エクスはデータ取りに集中してくれ」
とはいえ――ブレイは唇を噛む。エクスには強がってみせたものの、人喰い鮫がウヨウヨいる海に飛び込む心境だ。
三機は時間をかけ、アビスへと近づいていく。
数十分の間は何も起こらなかった。しかし鼻で嗅ぐことはないものの、拭いきれぬ死の匂いをメルフリートは感じている。瘴気のような黒い霧が、目に見えて濃くなっていった。
「さてさて、アビスの向こうには何があるのかしらね」
と言う【クー・コール・ロビン】の声に恐怖の色はまるでない。
「クーもあれを抜けた下に、大地が残っていると思うか」
「ええ、そんな希望でもなければ、空に孤立して生きていくなんて辛すぎるもの」
内心感謝しつつ、メルフリートは告げた。
「通信感度が落ちている。そろそろ断線するだろう」
これは『霧』のもたらす現象だ。一説によればアビス領域にたちこめる霧は、アニマ通信を乱すのみならず人間やアニマの精神に変調をもたらすという。
通信が使えなくなる以上、ここからはブレイ機、ヴァニラビット機を目視できる位置をキープせねばなるまい――メルフリートは思った。わずか三機による調査だ。互いが互いの命綱となることだろう。
ヴァニラビットは声にならない声を漏らす。
泡立つアビスの表面から、ぽちゃりと音を立て生物らしきものが飛び出してきたのだ。黒一色で眼が白く光っているところを除けばエイ(manta ray)に似ている。体つきはひらべったく、翼のようなヒレと長い尾が目立っていた。全長は三メートル前後だろうか。
「あれが【マンタ】ってやつね」
ヴァニラビットは唇を開いた。
マンタは一匹ではなかった。アビスのあちこちから湧いて出る。そうしてヒレをひろげ、悠々と空を泳ぎはじめていた。
「敵意は感じませんね。積極的に攻撃してくる様子はないようです」
いつまでこの状態かはわかりませんが、とイースターは言う。
「ヴァニラ、もっと近くで見てみますか?」
「もちろん」
できるだけ刺激を与えぬよう、生クリームの斜面を滑り降りるようになめらかに、ヴァニラビットはエスバイロを近づけてゆく。
メルフリート、ブレイも追随した。
ブレイは冷や汗をかいていた。鉛でも胃に詰めこんだ心境だ。
「いきなり飛びかかってきたりするなよ……」
「あの泳ぎ方を見る限り、そんなに素早い印象はないけど、用心して」
エクスの口調にも軽さはなかった。エスバイロごとアビスに引きずり込まれるところを想像してしまい、大急ぎでその思考を払い落とす。
十数匹のマンタが、水槽の中にあるかのようにゆっくりと空を泳いでいる。流木のごとくこちらに何の関心も払っていないように見えた。
しかし、目に見えぬ一線でもまたいだというのだろうか。
ピイッ――。
ある地点まできたところで突如、甲高い音をブレイは耳にした。
次々と音は伝播する。マンタが発し合っているのだ。
「きっとあれは……」
エクスは語ろうとしたが、それ以上は不要だとすぐに悟った。
マンタが一斉に、侵入者の排撃に動き始めたのだ。尾をめぐらせ、白い穴のような眼の輝きを増し、それぞれがそれぞれにとって、最も手近なエスバイロに向かう。
アビスの表面がさらに激しく、黒いマグマのごとく泡立ち始めている。
●未知の記憶
クー・コール・ロビンは緑の草原に立っている自分に気がついた。
アビスは? という思考はすぐに、風に吹かれたチリのように消えてしまった。
かわりに、草のやわらかさを足裏に感じる。クーは今、裸足なのだった。
若草の香りが清々しかった。
水気の多い曇り空だが、一雨くるのはまだ先だろう。黄緑の髪を手ですくと、クーはお気に入りのワンピースの裾をひるがえして歩きだした。
クーは知っていた。足で踏むこの草も、地面も、すべて本物なのだと。地を掘っても冷たくて堅い飛空挺の甲板など出てこない。いわゆる浮島でもない。本物の大地だ。
確かに知っていた。なぜってここは、クーの故郷なのだから。
「クー」
呼ぶ声が聞こえた。
桜の大樹の下に、杖を手にした老人が立っている。ふさふさと長い白ヒゲをたくわえ、眉も髪もやはり雪のように白い。
「おじいちゃん……? 私のことをクーと呼ぶあなたは……?」
見覚えがあった。胸に温かみがひろがっている。
だが同時に、彼が誰なのかクーにはわからなかった。目を凝らして見ようとすると、老人の姿は瞬時に壮年となり、まもなく、すっくと立つ青年へと変化した。なのにもう一度見るとやはり老人なのだ。不思議と、顔の細部は確認できない。
「別れの日が来たようだ」
老人は言った。
クーの眼に涙がたまった。彼の言っていることを理解できたから。
「そうね、いくら元気だっていっても年だもの。寿命くらい……」
寿命? 老人? いま改めて見ると彼は、クーより若い少年である。
あれ、とクーは思う。
あの人、似ている。
「メルフリートに……!」
はっとクーは目を覚ました。寝ていた? 馬鹿な。
「クー、急旋回だ! 振り払う!」
メルフリートの叫び声が聞こえた。手を伸ばせば届きそうな距離にマンタが迫っている。クーは咄嗟にエスバイロにシンクロし、慣性の法則を無視するような角度で機体を回転させた。
「ここで墜とされるわけにはいかない!」
まばゆい閃光がはじけた。メルフリートがフラッシュバンを焚いたのだ。至近距離で浴びたせいだろう、悲鳴に似た声をあげ、マンタはアビスの海へ逃げ戻った。
「クー、らしくないな。反応が遅れた」
メルフリートは言いながら、早くもニードルを発射して別のマンタを攻撃している。このマンタは、ブレイの背を襲おうとしていたのだ。
(ご、ごめん、ちょっと……その、戸惑っちゃって)
エスバイロにシンクロした状態のままクーは告げた。何に戸惑ったのかということまでは言えなかった。
「そうか」
メルフリートはそれ以上指摘することはなかった。
私の方が霧に呑まれそうになるなんて――クーは忸怩たる思いを抱えている。幻覚を見せられたに違いない。
一体何だったのだろうか、あの光景は。
しかしこのときクーは、もう一度見たいとも思っていた。
もう一度でいいから、『彼』の温かさに触れたかった。
●待避
そんなに素早い印象はない、というエクスの見立ては正しかった。
マンタの動きは緩慢だ。長い尾の攻撃のみ例外的に高速だが、予備動作として体躯を巡らせるのに時間がかかるため予測をつけやすい。
といっても、数が多いのは予想外だった。
今も、考えもしなかった方向から放たれた長い尾が頭上をかすめたので、首をすくめブレイは肝を冷やしたくらいだ。振り返ると敵は後方にあった。メルフリートがこのマンタにとっさに攻撃を放ち、狙いを狂わせてくれたものらしい。
修羅場というやつか、とブレイは歯を食いしばった。
「エクス、エスバイロの制御は一任する!」
ブレイはブリスコラのシートを両膝で締めるようにして立つと、我が頭上で大蛇のようにのたうつ尾をめがけ、両手で握った剣を逆袈裟に切り上げる。
一颯。刃はその切っ先すら敵に届かないがむしろ望むところ、剣の軌跡より放たれし真空の刃が、鋼の鞭のごとくあるいは鷲の爪のごとく、空気を裂いて尾をつかむや、たちどころにこれを断ち切った。その技の名を【ソニックエッジ】と人は呼ぶ。
このときすでにブレイの心から恐怖は消えていた。正しく言えば恐怖は残っていたものの、窮地にあってむしろ、腹が据わったというべきだろうか。
「やったね」
と笑うエクスもしっかりとブレイを支えている。彼女による絶妙の機体制御がなかったとすれば、エクスは攻撃にのみ注力できなかっただろう。
イースターが声を上げた。
「ヴァニラ、もう時間がありません。着艦制限時刻まであと15分程度です」
槍で左右のマンタの群れを遠ざけながら、よし、とヴァニラビットは力強く返した。
「かなりのデータは取れたね。もう撤退しようか」
ヴァニラビットはもう一度だけアビスを睨んだ。
――必ず戻ってくるからね、『領域』に。
念を込めると一気呵成、ヴァニラビットはエスバイロを猛加速して舞うがごとく、次々と槍をめぐらせマンタの両眼の間を突く。一匹貫くや槍を抜き、穂先をしごいて新たな標的を狙う。わずかな間に三連撃、一匹を粉砕、残り二体.に深い手傷を負わせた。
マンタは討たれるやガスになって四散するためサンプルを取得はできないものの、弱点が眼の間にあることが判れば十分な成果と言えよう。
「そろそろ撤退しよう! 急いだほうがいい!」
無線が効かずとも伝達はできる。ヴァニラビットは槍を大きく頭上で回転させたのである。
「わかった」
ブレイはすぐにその意を悟った。
「承知」
メルフリートも同じだ。
この少し前、旗艦に戻るための所要時間を、イースターは「長めに見積もっても10分はかからない」と計算していた。にもかかわらず15分の余裕をもって脱出することを彼女は促している。ヴァニラビットも異論を挟まず応じた。
もちろん安全のためには余裕のある時間設定が望ましい。しかしデータ収集を考えるのなら、もう5分滞在時間を延ばせば、それだけ多くのものが得られるはずだ。探究者として、そうした判断が働いてもおかしくはなかった。
しかしヴァニラビット主従のみならず、メルフリートとクーも、ブレイとエクスもその考えを採らなかった。
これは後からヴァニラビットが回想したことなのだが、このとき彼らは、これから起こることを直観的に予知していたのかもしれない。
最初に、異変を察知したのはエクスだった。
「……アビス領域が」
「上昇する……!」
クーが発言を引き継ぐ。
満ち潮になったかのように、アビスの黒い面が上昇しはじめたのである。それも、急速に。
泡立ちはますます高まり、倒され数を減じたはずのマンタが、急激にまた生まれ始める。
「これまでにない勢いです……! アビス領域がこれほど一気に進んだのは、観測史上例がありません!」
イースターの声が震えていた。ブロントヴァイレス戦役のときですら、確認されたことのない数値だというのだ。まるでアビスが、飛空世界のすべてを滅ぼすと決意したかのようではないか。
これだけでも信じがたい光景であった。しかし、
「あれは……何だ」
メルフリートは我が目を疑った。何度も瞬きするも、見えたものに変わりはなかった。救いを求めるようにヴァニラビットを見る。ヴァニラビットも同じものを見ているのだろう。体を強張らせているようだった。ブレイも、同じだ。
アビス領域の遠くから、巨大な、あまりに巨大な頭部が突き出したのだ。
人間のものではない。
黒く、角をもつ生き物だ。
――巨大な羊の頭部……だと。
このとき見たものを、メルフリートは忘れないだろう。
●脱出
エスバイロ三機はマンタの群れを振り切り、全力で急上昇をかけた。
「黒い羊だって!? 悪い冗談にしてもほどがあるだろ!」
ブレイは聞いたことがある。アビスによる世界の滅亡を願うカルト教団【黒いメシア】の信者がこのところ、【黒い羊】なる言葉を口にしはじめたのだと。狂信者のたわごとと、そのときは一笑に付したものだ。
浮島ほどの大きさがある羊の頭部など、あっていいはずがない。
――アビスの霧が見せた幻覚だろ。
そう思う。そう思うことにする。
「早く着艦して下さい! すぐにこの領域から脱出します!」
激しいノイズに包まれながらも、ニコラス少尉の叫び声が通信回線に入ってきた。
三機は旗艦ドラゴンフレイムにたどり着く。少数精鋭で臨んだのは、結果として正解だったといえよう。十に迫る編隊であれば、足並みがもつれ犠牲者が出たかもしれない。
「離脱! 全速力!」
ガウリールが号令をかけるや否、ドラゴンフレイムは上昇を開始した。
「一時はどうなることかと」
ブリッジにヴァニラビットが入る。
旗艦の下方モニターを見ると、まだ領域は上昇を続けていた。しかしその速度は衰えつつあるようだ。低速のエスバイロならともかく、旗艦の足をとらえるほどのものではないだろう。
「助かった」
転がりこむようにしてブレイも入ってきた。ガウリールの顔、遮光ゴーグルで眼を隠した悪相だというのに、こうして再び見ることができてほっとしている自分に少し、ブレイは驚いてもいた。
「急激なアビスの隆起があって驚いたけど、まずは一安心じゃない?」
クーが姿を見せて告げる。アビスの霧に包まれて見た幻覚については、これから旅団に戻るまでの時間でゆっくり考えてみたい。
しかし、クーの宿主たるメルフリートの考えは違った。
「……いや、そうとはいかないようだ」
どういうこと、とクーは訊き返そうとするもすぐに察して口を閉ざした。
アビス領域の上昇速度は落ちつづけている。それは変わらない。
だがこの艦、ドラゴンフレイムの速度も急速に落ちているのだ。
アラームが鳴り始めた。緊急電源に切り替わったのだろう、ブリッジ内の灯が一斉に消える。艦内の光源は、最低限度の計器とモニターのみに陥った。
「ガウリール特佐!」
ニコラス少尉が悲鳴のような声を上げた。
「信じられません……燃料(フラグメント)が……燃料が……!」
「見せて!」
卒倒しそうになったニコラスの細い肩を支え、ヴァニラビットが燃料計をチェックする。さあっと血の気が引くのが判った。
燃料系には、ゼロ、と表示されていた。
●The New Stage
飛空挺は、燃料が尽きても即座に落下することはない。しかし当然のことながら動けなくなる。
つまりこの艦は、現在の位置に張り付けられてしまったのだ。
いくら領域の上昇速度が落ちたといっても、この距離で身動きできないとあれば遅かれ早かれ、アビスに呑み込まれることは疑いがない。
「出発前には三重に燃料チェックはしています……! こんなことって……」
ニコラスの顔色は紙のようだ。歯の根が合わぬようで、膝も震えている。
「貴公のミスではないよ、少尉」
このとき静かに、口を開いたのはガウラス・ガウリール特佐だった。
「してやられたな、出航直前に燃料タンクに細工されたのだろう。どうやら、上層部は私をここで始末するつもりだ」
ガウリールはある種の冷気をまとっていた。この運命を悟っても、動じた様子はまるでなかった。
「デレルバレルはもちろん、メデナの上層部はすでに腐りきっている。愚かな連中だ。アビスに関する貴重なデータの入手より、おのれらの地位を脅かす『危険人物』の排除のほうが大切らしい」
ガウリールの口調は淡々としている。口元に、皮肉なしわが浮かんでいた。
「俺たちのエスバイロなら動けるが……」
言いかけたブレイだがすぐに思い至る。
「駄目だな。旅団まで燃料がもたない。それにエスバイロの推力より、領域の上昇速度のほうが勝るだろう」
ブレイは床に腰を下ろした。取り乱してもおかしくない状況だというのに、自分でも不思議なくらい落ち着いていた。
艦下方のモニターに黒い影が映った。
マンタだった。五メートル近い大型だ。舌なめずりするように、長い尾を左右に揺らせながら近づいてくる。
「最後まで希望は捨てない!」
ヴァニラビットは槍を手にした。
「まだ私のエスバイロは動く! 叩き落としてやるわ! エスバイロがやられても、甲板で戦ってみせるから!」
「付き合うしかなさそうですね」
イースターは肩をすくめて苦笑した。こんな最期も悪くはないと思った。
「やれることをやるまでだ」
メルフリートも応じる。
「そうね! きっちりデータは取らせてもらうから」
クーが続いた。
「悪あがきは得意でね」
ブレイは立ち上がる。笑っていた。心残りは、ある。だから、あがけるだけあがこう。千に一つの確率であろうとも、運命は変えられると彼は信じている。
「ブレイならそう言うと思った」
エクスも否やはない様子だ。
しかしこのとき、きっぱりとガウリールは告げたのである。
「無用だ。手は打ってある」
彼がこう告げ終えると同時に、マンタの頭部にマッチ棒がぶつかった。それも大量に。
もちろん普通のマッチではない。ぶつかるや激しく爆発したのだ。
しかもそのひとつひとつの大きさたるや、新体操の棍棒くらいはあるではないか!
「マッチ棒……いや、【マッチ暴】!?」
誤字ではない。
ヴァニラビットは、あの特徴的な笑い声が艦内にこだまするのを聞いたのである。
「イッヒッヒー! 手助けが必要なようだねェ……!」
艦側方を映したモニターには、俺ジナルにもほどがあるマッチ箱型エスバイロにまたがり、赤いコスチュームを風にはためかす少女の姿があった。そのギラギラした眼の少女から、通信が飛び込んできたのである。
「そう! 【マッチ売りの症状】とはアタシのことさ!」
援軍は彼女ひとりではなかった。野太い声の唱和が艦を取り囲む。
「我ら【三択弄す(サンタクロース)】団、仮釈放を得てここに参上ッ! さあドラゴンフレイムの乗り込み員たちよ、1.安心 2.安堵 3.安眠 のどれを選ぶか!?」
季節外れもいいところ、サンタクロースのコスチュームを身にまとい、ソリ型エスバイロにまたがった姿が次から次へと飛来しては、マンタへの攻撃を開始したのだった。その数、二十数機は下るまい。
「彼らと取引した」
ガウリールは悠揚と艦長席に背を預けた。
「少々汚い手を使ったが、現在私は、彼らと傭兵契約を交わしている」
一同、もう顔を見合わせるほかない。
巨大な燃料タンクを積んだ中型飛空挺(雪だるま型をしている……)がドラゴンフレイムに着艦したのは、それから間もなくのことだった。
依頼結果
作戦掲示板
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[1] ソラ・ソソラ 2017/03/08-00:00
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おはよう、こんにちは、こんばんはだよ! 挨拶や相談はここで、やってねー!
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[4] メルフリート・グラストシェイド 2018/03/14-22:58
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ふむ、見覚えのある顔だが一応名乗っておこうか。僕はメルフリート。 エスバイロは安定性…頑丈さを重視している。盾役くらいはやってみせよう。 アビス領域に直接乗り込む機会は見逃せん。
ああいう手合いは僕としてはむしろ信用できるな。 時間一杯まで取れるだけのデータは取っておきたい所だ。
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[3] ヴァニラビット・レプス 2018/03/14-22:26
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ケモモでマーセナリーのヴァニラビットよ。よろしく。 たしかに打ち合わせはしておきたいわね。 私のエスバイロは戦闘向けだし、戦闘は正面からアタッカー予定よ。
>特佐の言葉の意味 > 撃破に拘り過ぎると危険…っていうのが一つかしら。 敵ではないと思いたいけれど…あえてアビスに当てさせて人間側のデータも取りたい、というのもありえるかも…?
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[2] ブレイ・ユウガ 2018/03/13-08:50
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ドーモ、マーセナリーでヒューマンのブレイです 今のところ3人しかいないが早いうちに話し合いをしておきたい なんせ難易度が難しいでシリアスだ。相談を怠ったら阿鼻叫喚な未来が待ってる気がしないでもない。『アビ』スだけにな(ガハハ
……で、やる事はアビスの撮影とマンタとの戦闘データを採る事なんだが、あいにく俺のエスバイロに武装はない。というわけで俺は周辺データを採る事に集中して、マンタに襲われたら全力で逃げて囮なりなんなりする予定だ
ところで、ガウリール特佐の言葉の意味をよく考えろってあるけど、言葉通り捉えるなら制限時間内にちゃんと帰ってこいって意味なんだろうけど、やっぱり他に深い考えがあるんだろうか……
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