プロローグ
ドーム状の部屋、ひとつきりの円い窓から彼女は外を眺める。
外は雨が降っていた。雨粒が小さく、まばらながらやむ気配のない、やるせなくなるような雨だ。
室内は、十人を超える人数が寝泊まりできるほどの広さがある。しかしその内部にいるのは彼女ただひとりだ。ベッドや棚など最低限の家具こそあれ、装飾は皆無といっていい。天井から壁、床に至るまで色はすべてシルク調の白なのがまた寒々しかった。
フラジャイルのマリア――それが彼女の名前だ。
本名ではない。仮の名前に過ぎない。本当の名前は、彼女自身知らない。
いや、誰も彼女の本当の名を知らないのかもしれない。少なくとも、彼女が生まれた時代より千年を経過したこの世界では。
マリアは透明な窓に額を押しつけていた。雨の来し方を探すように、水色の瞳を薄曇りの空に向ける。
黄金の髪、肌は淡い褐色、十六歳くらいだろうか。整った容姿だが、かたちのない悲しみを抱えたような表情をしている。
マリアは窓から額を離し、右に首を傾けた。
「ドクター」
ぽつりと言った。わずかだが頬に紅色がさす。
部屋の一部だけはガラスで仕切られていた。仕切りのむこうにはドアがあるが、マリアはそこから外に出たことがない。そもそも、ガラスの向こうにすら出たことはなかった。
そのドアが開いたのだ。現れたのは、マリアのよく知る人物だった。
仙人のような白髪に長い白髭、サイズが合っていない白衣を包むのは針金のような痩身、決して若くはなかろうけれど、実年齢不詳と呼ぶしかない容姿だ。リーウァイという名前だが、マリアは『ドクター』と呼んでいる。
雲の上を歩くような歩調で、マリアはリーウァイの前に立った。
「ご機嫌いかがかね、マリア」
「昨日と同じです。一昨日とも」
眠たげにマリアは目をこすりはじめる。
千年の夢から覚めてなお、睡眠が足りていないのだろうか。彼女は現在でも、突発的に意識が落ちることがしばしばあった。
「いいニュースだ」
その場で船を漕ぎ出しそうなマリアを引き留めるように、ドクター・リーウァイは強化ガラス戸に手をついた。
「マリア、君の外出許可が出そうなんだよ」
えっ、と小さく彼女は声を上げた。
フラジャイルのマリア、そう呼ばれている少女は人間ではない。浮遊島トレジャー・アイランドで発見された【スレイブ】である。
スレイブは魔法生命体だ。人間の少女そっくりの外見、思考能力を有するも、魔法エネルギーによって生きて(あるいは、生かされて)いるため、原則食事をとる必要はない。最低限の水分さえあれば生存は可能とされている。
スレイブは、ひとりの所有者のために生きるものらしい。所有者の世話をし、話し相手となり、仕事を手伝うのだという。芸術文化、学術研究、あるいは戦争において、所有者を手伝い歴史に残る活躍をしたスレイブの伝説が残されている。
といってもいずれも推測の域を出ない。スレイブの実態について、現在も知られている部分はごくわずかなのだった。
なぜならスレイブは、約千年前のアビス跳梁と前後して姿を消していたからだ。
スレイブそのものはもちろん、これにまつわる技術や文献、知識の大半は、アビスによる地上世界滅亡とともに失われており、近年にいたってはその実在すら疑われつつあった。……つい先日までは。
トレジャー・アイランド内の古代遺跡に、ほぼ完全状態のスレイブが発見されたのだ。
探求者たちがたどりついたとき、スレイブは冷凍睡眠(コールドスリープ)の状態にあった。
しかし、装置から解き放たれ目を覚ました彼女には記憶の一切が存在しなかった。自分がおかれている状態はおろか名前すらもわからない。冷凍装置のケースに刻印されていた『fragile』(こわれもの)という表記、さらには『MARIA』という名称らしき文字をくみあわせて、彼女には『フラジャイルのマリア』という名称が仮に与えられたのである。
発見から一ヶ月、マリアの存在は伏せられ、探究者たちにも箝口令が敷かれていた。大きなニュースとなり、場合によってはパニックになることを恐れた空挺都市国家連合【メデナ】の判断によるものだった。
その一方で、テストピアに設置された研究施設内で彼女に関する調査はすすめられていた。
マリアが本当に千年以上前の時代の存在ならば、彼女はこの時代の大気に触れることで機能不全を起こす可能性がある。逆に、彼女がこの時代の人間には耐性がない疫病を持っているおそれもあった。
ゆえに彼女が暮らすこのドームは無菌室なのだった。彼女を外部から守る、あるいは、彼女から世界を守るための。
ドームの内装は自由にコントロール可能で、南国ビーチ風や瀟洒な邸宅のリビング、山林や草原の光景も自由に映し出せるというのに、最初こそ色々試していたマリアだが、じきに飽きてしまったのか「このほうが落ち着く」と白いだけのものに戻してしまった。
「それで、本機の処遇は」
本当に眠いのだろう。意識を保つべく目をしばたたかせながらマリアは言った。いくら指摘してもマリアは、『本機』という奇妙な一人称をやめない。
祖父のように笑みをたたえてリーウァイは言う。
「マリア、君が危険なウイルスや放射線を有している疑いはついに晴れたのだよ。もうじき研究者がこのドームに入り、最後の身体チェックを行う。そうしたらいよいよ、君が熱望していた『現在の世界』を案内する。探究者……古代では【冒険者】と呼ばれていた人たちがもてなすよ。いくつかの旅団や旅団内の都市、商業施設や観光地を見ていくがいい。マリアに必要ないことはわかっているが食事も楽しめるかもしれない。無論、これをつなぐのは空の旅だ」
「空の……旅……」
マリアは目を細めた。
「我々の時代には字義通りの『地上』というものは存在せん。すべては空の上で行われている。そのぶん、空を移動する手段は発達したといえよう。気の効く探究者ならエスバイロに乗せてくれるかもしれんな」
「そうですか……それは楽しみ、です」
途切れ途切れに言うと、やはり眠気には勝てないのかマリアはぺこりと頭を下げて、
「……その前に一眠りさせていただきます」
「そうか、しっかりと休むといい。次は身体チェックのために戻ってくるよ」
ありがとうございます、とつぶやくと、今にも倒れそうな足取りでマリアはベッドに向かいかけた。
しかし、思い出したように足を止めて振り返った。
「そうだ、ドクター……」
「なにかな」
「口調、普通に戻っています」
「おっと、わしも嬉しすぎてうっかりしていたようじゃ。そげなことやけんよろしゅうお願いするわえ」
会釈なのか笑ったのか、ゆらゆらと頭を揺らすと、またマリアは歩き出したのだった。
解説
本作ではキャラクターごとに個別、あるいはチームを組んでの行動ができます。
参加キャラクターは、以下のどの行動を基本とするか選んで下さい。
(1)マリアの身体検査
マリアは外見こそ人間、とりわけヒューマンそっくりですが、魔法生物ですので身体的構造には根本的な違いがあります。
皮膚や臓器の調査は専門家が行っているところですのでサンプルを取る必要はありません。本日外出するにあたって、マリアの身に有害なウイルスが含まれていないか念入りに調査してください。
黙々と作業するより、なにかと話しかけてあげたほうがマリアも気が楽でしょう。あまり会話が得意ではないということであれば、アニマに任せてもいいと思われます。心の障壁がなくなれば、彼女もより協力的になることでしょう。
思わぬきっかけから、彼女が古代の記憶を取り戻すことがあるかもしれません。
(2)マリアを観光に連れていく
行き先は自分の所属旅団に限りません。空の牧場、商業施設、あるいは学校……彼女はこの時代についてほとんど知りませんので、どんな場所でも喜ぶはずです。
望むのであればマリアと食事する機会も設けることができます。スレイブは食事をする必要のない体ですが、体験そのものには興味を持っていることでしょう。
(3)マリアの身辺警護
どれだけ秘匿したつもりでも、情報は漏れているものです。
狂信的テロ組織【黒いメシア教団】がマリアの身を狙っているという噂があります。彼らは黒いローブに身を包んでいるのが通常ですが、一般人にまぎれいきなり正体を現すという方法もしばしば用います。
教団はマリアの暗殺ではなく、誘拐を企てているようです。
(2)の裏方的役割と言えるでしょうか。教団が現れたと思ったときはすぐに(2)は退避し、(3)の人員のみで教団を撃退して下さい。
ゲームマスターより
桂木京介です。お世話になっております。
大規模作戦【トレジャー・アイランド】調査のひとつ、『ピラミッド内部の探索』のラストで発見された謎めいた存在、【フラジャイルのマリア】の軟禁状態が緩和されることになりました!
本作では、マリアの体について最終チェックを行い、安全が確認された彼女を観光に連れ出すことになります。
けれども御用心、彼女の身を狙う者もあるかもしれません。
マリアに許されたはじめての『おでかけ』、あなたはどんな役割を担いますか?
基本行動のうち、(1)は単独、(2)と(3)はそれぞれチーム行動を想定していますが、必ずしもそうする必要はありません。
どこか超然としている彼女ですが、実のところわりと天然なようです。仲よくして上げて下さい。
それでは、つぎはリザルトノベルで会いましょう。
桂木京介でした!
MARIA エピソード情報
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担当 |
桂木京介 GM
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相談期間 |
4 日
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ジャンル |
イベント
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タイプ |
EX
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出発日 |
2017/11/28
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難易度 |
普通
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報酬 |
少し
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公開日 |
2017/12/08 |
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(2) マリアちゃん…トレジャーアイランドで見つけた、あの子だね。 どうも、暫くはドームの中から出れなかったみたいだし…退屈してたんじゃないかな。 という訳で、マリアちゃんを観光に連れ出してあげるよ。 千年前って言われてもピンと来ないけど…少なくとも、エスバイロみたいなのは無かったんじゃないかな? とりあえずエスバイロを出して、マリアちゃんを乗せて辺境空域の辺りを流そうかな。 万が一、黒いメシア教団が襲ってきたら、マリアちゃんを安全なところまで連れていく、もしくは警護組に預けてから退避。 問題なければ、リーウァイさんやメデナに襲撃のことを報告しつつ退避するよ。 申し訳ないけど、撃退は警護組に任せるね。
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身体検査とは言うものの僕の医学知識は別に深い訳ではない。 しかし潜伏期間のあるものならば件のドクター達が既にやられているだろうし、即効性ならば尚更。 今回の事は、まあおまけのようなものだな。 もっとも、ここに来たのは僕も君への興味を持っているからだ。 長い時の旅をしてきた君に。その旅路はほとんど寝て過ごしたようだがね。 だが…僕はドクターの言葉に一つ引っ掛かりを覚えた。 君は、「地上」を知っているのかね? 記憶と呼ぶほどの物ではなく、ただの常識…千年前ではな。 だが僕達にとって君の常識は未知の領域だ。 当たり前こそが何よりも大きな不思議。 君もそうなのだろう。 君がこれから目にする僕たちの常識を存分に楽しむがいい。
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・目的 面倒事が起きたらマリアを無事な所まで避難させる ・動機 ぞろぞろと探索者を連れて歩いちゃ目立っちまうってのはわかるが、 スレイブの身と機密を守り通すにはちと探索者の数が足りないんじゃないのか? まあ良い、こういったのは慣れている。 ・行動 教団がマリアを狙うとしたら、観光する場所に息がかかった奴を忍ばせるだろうな。 逃げ場が限られるような場所に連れ込まれそうになったら要注意だ。 教団がお出ましになったら…そうだな、マリアを連れてデレルバレルの関連施設まで走ろうと思う。 街中で暴れる訳にもな…【み~らくるくる☆マジカル】の奇跡頼りしかないが、 切羽詰まれば【どっす~ん☆クエイク】で軽い地震を起こして足止めだ。
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スレイブって都市伝説じゃなかったんだな そんな相手をエスコートとか恐れ多いから検査の方に回る スレイブの現物をじっくり調べられる機会なんてこの先あるかどうかだし 検査するべき項目を聞いてその通りにやる 色々と興味が尽きないが、やりすぎると訴えられそうだから自重せねば 会話はエクスに任せる。同性なら話しやすいだろうし、スレイブとアニマは似てるから親近感を持ってくれるはずだ それに、そうやって話してる間に何か思い出すかもしれねえし にしてもマリアを、スレイブを見てると心の奥から湧き上がるものがあるんだよな ものすごく大事な存在の事が頭の中に引っかかってるような妙な感覚だ ……って、いかんいかん。仕事せねば
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黒いメシア教団がマリアさんの誘拐を企てているという情報があります。 私たちがいれば自分は安心なのだとマリアさんに思ってもらえるよう敵を蹴散らしましょう。 相手がどのように巧みに変装をしていても、ターゲットであるマリアさんを視認してから行動するはずです。 ならばゲッカコウにマリアさんへ視線を向ける相手を特定してもらい、その人たちを警戒しましょう。 殺気、とまではいかなくても不穏な気配を感じ取れないでしょうか? ゲッカコウからエンチャントを貰いバックラーで防御しつつ足元を狙ったソニックエッジで相手をけん制、デュエルブラッディでとどめを刺します。 可能であれば尋問してマリアさんを狙う理由を聞き出しましょう。
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『フラジャイルのマリア』(仮称)の身体検査(1)を行う。 と言っても、細かい所は診察済み……らしいし、入力端末片手に、データ的に変な事(クラッキング等の、ハッカー的攻撃等や、そんな痕跡)が無いか?調べるだけ……だけれど。 その間、アニマ(リュミエール)には、マリアの話し相手をして貰う感じに。 取り敢えず、こういう事は信頼関係を築くが大事……だから、その辺には……特に気を使って、厭がる事は当然しない。何をしているのか?本人に問題無い事だ……という事の呈示も、優先的に。(PC、アニマ共) (※PC、アニマ共に、アドリヴ大歓迎)
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目的 観光案内をしてマリアに食事の楽しさを知って貰い、心の充足に必要な事だと理解させて仲良くなりたい 心情 ん~縁もゆかりも無けりゃ、この子の情報をいつものようにハックして方々へ売り流すんだけどねぇ。 宝島で見つけた誼があるからそれは無しで、おじさんが観光案内やメシでも奢ってあげるとするか。 行動 マリアに商業施設の観光案内をする 食事の必要がないから経験が無い?それはもったいない!どんな味が好みかも分からないだろうから、甘い物、辛い物、酸っぱい物等々の色んな味の料理を少しずつ試食させて、一番気に入った味の料理をごちそうしよう 必要性が無くても、食事は生きるための活力になる、彩りになる事を知って貰いたい
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(3) ・フィール 護衛対象からつかず離れず、警戒。 み~らくるくる☆マジカルを真っ先に使ってご都合主義状態に。 攻撃手段として、やきい~れ☆デッドハントで、釘バット見たいな魔力攻撃でぶん殴る。ストレス発散。 ・アルフォリス さーて。どーせ【スレイブ】とやらを誘拐して、その構成情報やらを利用するつもりなんじゃろ。 しかたない。ほれ、フィール、新しい服じゃ(露出度高く、人目を引く服)。気分転換にもなろう? (この服を着て、周囲の人間の視線(男の本能刺激、女の嫉妬の視線)を集めるさせるのじゃ。不自然に視線を護衛対象に向けていれば、そやつが襲撃犯の可能性が高くなるしのー)
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参加者一覧
リザルト
私室の内側は白一色、家具がほとんどなく気温も低いせいもあってか、『Truthssoughter=Dawn (トゥルーソウター ダーン) 』はイグルーを連想した。イグルーというのは氷で作ったドーム状の家だ。もっともそれが地上にあったという話は、物語にしか存在しないのだが。
ガラス戸に行き着く。分厚い防護ガラスだ。空気を通さず、銃弾にも耐えうる強靱なものである。
この扉とドームの壁は、『フラジャイルのマリア』と外の世界とを隔てているのだ。マリアを世界から、あるいは、世界をマリアから守るために。
「お初にお目にかかります」
トゥルーソウターは名乗り、アニマ『lumiere=douceur (リュミエール ドゥサール)』のことも紹介した。
はじめまして、とマリアは短く返すと、冬の泉のような瞳で彼を見る。
「お召しにならないのですか、防護服?」
未知のウィルスが付着している危険性があるため、マリアと直接接触する者はこれまで、潜水夫のような防護服を着用するのが常だった。
「ご配慮ありがたく思います。ですが、そのようなものは無用です」
トゥルーソウターはうなずいた。すでにマリアの体について安全性は確かめられている。ピラミッドで直接マリアと接した探究者たちにも、いまのところ健康被害はその兆候すら現れていない。マリアにとって、この時代の外気が無害であることも証明されていた。
「お入り下さい」
おもてなしはできませんが、と薄笑みを浮かべて、マリアはガラス戸を解錠した。
学究の徒として、トゥルーソウターは何も不安を抱いてはいなかった。むしろ自分が、公的に『直接』(防護服なしに)マリアと接触する機会を持った初めての人間であることに光栄すら感じている。
暖炉にあかあかと火が燃えた。クリスマスツリーにほのかな灯りがともる。
暖炉? クリスマスツリー? いずれも映像である。殺風景な室内に、マリアがビジョンを映し出したのだった。部屋はログハウスのような内装になっている。
やはり映像にすぎぬカーペットに、マリアは膝を崩して座った。
「お気遣いありがとうございます」
トゥルーソウターも腰を下ろすと、入力端末を取り出し起動した。
「診察をはじめます。失礼しますよ」
彼はマリアの腕をとった。
ひんやりとした腕だ。デモニックの肌質と近く、すべすべしている。合成物のような弾力もあった。
「といっても細かな調査はすでに終わっていますから、データ的に変なことがないか調べるだけ……ですけれど」
「変なこと……?」
「ああ、クラッキング等のハッカー的攻撃や、そんな痕跡がないかスキャンするだけです。すぐ終わるでしょう」
なるほど、と言ったマリアの声にはとろんとした眠気がこもっていた。しばらくするとうつらうつらしはじめる。
ちょこんと正座したまま、リュミエールがマリアににじり寄った。
「もしかして、眠いのでございますか……?」
「……はい……失礼なのはわかっているのですが……構わず続けて下さい、診察」
リュミエールはしげしげとマリアを見た。言葉は嘘ではないようだ。もう半分以上、マリアの目は閉じてしまっている。
「どうしてそんなに眠くなるのか……おわかりでしょうか?」
「いいえ」
とマリアは言った。
「リュミエール様はご承知でしょうか……その理由……?」
「【スレイブ】については、不明点がとても多いのです」
トゥルーソウターが首を振る。
「色々、資料が喪われて……いますしね」
リュミエールも同意見である。といっても、リュミエールには思い当たることはあった。
(まぁ……主人と離れていることによる、休眠状態……が、いつも眠そうにしている理由……なんでしょうけれど……)
しかしあくまで予想でしかない。マリアを悲しませることになるかもしれず、リュミエールはこのことについては口をつぐんだ。かわりに話しかける。
「眠気覚ましに、と言っては変かもしれませんが……教えていただいて構いませんか……? この時代に来てからの話を……」
「興味がおありで? そんなことに」
「ええ。印象に残っていることとか、目覚めてから初めて見た風景や人物に関して……」
一度見たきりですが、とマリアは言った。
「空の下に黒いものが広がっていたこと、でしょうか……あれをたしか、こう呼ぶのですよね……【アビス】?」
「アビスにどんな印象を持ちました? かつて存在した【地上】を思うことは?」
トゥルーソウターとしては、リュミエールに話を任せるつもりだった。自分は検査に集中し、傍聴するにとどめる意思だったのである。しかし話題が【地上のあった時代】にかかったため、どうしても聞きたいという気持ちが勝った。
「うまく……できません。表現を」
マリアはうなだれた。
「足元に深淵が見え隠れしているという状況は、不安です。けれど空の文明には希望がある、そんな風に思いました」
それだけです、とマリアは告げた。
そして間もなく、眠ってしまったのだった。
休息の後、トゥルーソウターに代わって招き入れられたのは『メルフリート・グラストシェイド』だ。
「お時間ですか? 検診の」
彼を見てどう勘違いしたのか、マリアはベッドから降りると病室着のような白装束を脱ぎ始めた。すとんと足元に服を落とし下着姿になる。しかも彼女はためらうことなく、その下着すら外そうとしているではないか。
飾り気のない白い布地の下から、豊かな双つの膨らみが露わに……なりかけたところでメルフリートの視界はふさがれた。
「待って、違うから」
『クー・コール・ロビン』が素早く、メルフリートの眼前に回り込んだのだ。
「そういう検査に来たわけじゃないんで」
あくまでクールな姿勢を崩さないもののクーは、両手を重ねてメルフリートの視界をさまたげていた。半透明の身のアニマでも、これだけやればクーを通して向こう側を見るのは難しい。
クーの狼狽(?)ぶりと比べれば、メルフリートのほうはいたって落ち着いている。
「僕の医学知識は別に深いわけではない」
軽くかわしてクーの妨害から抜け出ると、
「潜伏期間のあるものならば件のドクターたちが既にやられているだろうし、即効性ならば尚更だ。今回の検査は、まあ、おまけのようなものだな」
「だから着てね。寒いでしょうし」
というクーの言葉に応じ服を着たのち、マリアは壁のパネルを操作して室内映像を草原に変えたのだった。
構わないか、と許可を得てメルフリートはベッドに腰を下ろした。服を着たマリアも彼に並ぶ。
「ここに来たのは、僕も君への興味を持っているからだ。長い時の旅をしてきた君に」
といっても、と言葉を切って彼は続けた。
「その旅路はほとんど寝て過ごしたようだがね」
「ええ」
残念ながら、とマリアは答えた。
「僕が知りたいのはひとつだ。教えてほしい。君は、【地上】を知っているのかね?」
「本機にあるわけではありません、明確な記憶は」
耳慣れぬ【本機】という一人称を用いてマリアは言った。
「でも、かつて見上げていたという概念はあります。みなさんが暮らし、いま、本機もいるこの空の世界を。なので、いくら説明されても逆になったように思えてならないのです、天地が」
「記憶と呼ぶほどのものではなく、ただの常識というわけか……千年前ではな。だが僕たちにとっては、君の常識は未知の領域だ」
わずか一千年前まで、世界は地面にあったという。足元にアビスのない世界というものを、メルフリートはどうしてもうまく想像することができなかった。
「じゃあ、少し話は変わるけど」
クーはベッドの中央に乗っていた。膝を八の字にひらき、間に両手をついている。
「ピラミッドはどうして空にあったのかしら。あなたがいたのなら、元は地上にあったのでしょう?」
「原理は説明できませんが……あなたがたが【トレジャー・アイランド】と呼んでいる浮島は、もとは一部だったのかもしれませんね、地上の」
「大地より分離し、浮遊したというわけか」
その可能性はメルフリートも考えてはいた。だがこうしてマリア自身の口から聞いてみれば、そうとしか思えなくなる。
「千年後の人類であるあなたたちは、エネルギー資源のことを【フラグメント】と呼んでいるとうかがいました。『断片』という意味ですね。もしかしたらこの世界は、かつての地上の断片を燃やすことで成り立っているのかも……しれません」
「旧世界の断片が、我々の世界の燃料だというのか」
まさか、とメルフリートは口をつぐんだ。
こじつけだと一笑に付すはたやすい。しかしでたらめだと言い切る材料もないことは確かだ。
(だが、だとすれば、僕たちはどれだけ、罪深い時代に生きているのか)
いつか過去の断片がゼロとなる日が来るだろう。そうすればすべての旅団はアビスに墜ちる。
(過去を食らいつくしてしまえば、未来は潰えることになる。それはあまりにも――)
メルフリートの表情が険しくなったことに気づき、クーは意図的に明るく声を上げた。
「浮遊……ねえ、それってやっぱりピラミッドのせいなのかしら? ピラミッドパワーって言葉、聞いたことあるけれど」
クーは座禅を組み、気球のようにふわりと浮かんだ。
空中で逆さになると、クーは「ところで」と言ったのである。
「本来の目的もお忘れなく」
そうだったな、とメルフリートは気を取り直した。
「抗生物質を持ってきた。スレイブに効くかはわからないが無意味ではあるまい。外の世界に赴くにあたって、念のため摂取しておくといい」
「どうやって摂取してもらう? 液体だから飲んでもらってもいいし、注射もありだし……いっそ、メルフリートから口移しでもしてみる?」
クーは冗談でこう言ってみたのだが、
「なるほど、確実性という意味なら悪くない」
「それでお願いします」
大真面目にメルフリートとマリアがこれを容れたので、慌てて否定するはめになった。
「ちょ、ちょっとそれ困……っていうか良くない! そこから恋の病に感染、なんて洒落にもならないもの!」
検査の仕上げとして『ブレイ・ユウガ』が担当したのは、マリアの健康診断だった。
事前にドクター・リーウァイから渡されたチェックリストを片手に、ブレイはマリアの身体検査を行う。身長、体重といった基本的内容から、瞳孔の動き、脈拍なども順次調査していった。これは今まで毎日のようにリーウァイら科学者のチームが担当してきたものだったが、ルーティンワークになることを懸念して、あえて彼女とは初対面のブレイに任せたものである。
「普段と違う人が調査を担当することで、彼女に関する新たな発見を期待する……って狙いもあるのでしょうね」
ブレイのアニマ『エクス・グラム』はつぶやきつつ、腕組みしてブレイの作業を見守っていたが、それも短時間のことであった。どこから取り出したかホイッスルを吹いて飛び出している。
「警告警告! マリア、あなた、脱がなくていいから! はいブレイも作業中断! 速やかに後ろ向いて目を隠す!」
無頓着にマリアが脱衣をはじめたのである。
「……ったく、エクスが勘ぐるような感情はないって。純粋に聴診器を使いたいだけだ」
「本当かしら?」
エクスの疑いのまなざしを背に感じながら、ブレイはマリアの腹部に聴診器を当てるのだった。
「大きく息を吸って……吐いて」
武器に限らず、これまで様々な道具に触れてきたブレイだ。医療器具も一通りさわった経験はある。もちろん専門職には遠く及ばないものの、ある程度以上に使いこなすことができた。
「こういう音が聞こえるわけか……興味深いな」
「興味持ちすぎてやりすぎないように」
わかってるって、とエクスに返しながらも、マリアが黙りこくっていることをブレイは懸念している。
だが、何を話したらいいのだろう。うかつなことを口にして気分を害したら、と危惧するゆえなかなか会話の糸口を見つけられない。
ブレイの迷いを敏感に察したものらしく、エクスはマリアに並んだ。
「せっかくだからお話しない?」
できるだけフレンドリーに、警戒を解くような口調で語りかける。
「会話、ですか? 本機と?」
「もっと気楽に『Q&A』でもいいよ」
「本機がすればいい、ということですね? あなたたちへの質問を?」
「そういうこと」
手を叩くと、魅惑的な肢体をエクスはマリアに寄せるのである。マリアの美しさに神秘的な月を重ねるならば、エクスの美貌はまるでゴージャスな太陽だ。
「なんでも聞いてよ。私たちが貴女のことを好き勝手に調べてるのに、貴女はなにも知らないって不公平じゃない?」
「では……あなたたち【アニマ】は、その主人に対してどういう存在なのでしょう?」
エクスの話しぶりに引き込まれたか、マリアの瞳に熱がこもりはじめていた。
「生きる上で必須のパートナーといったところかしら。スレイブなしでも当時の人間は生活できたでしょうけど、アニマなしでは現代人は買い物のひとつも満足にできやしないんだから」
「精神的な結びつきは?」
「それはきっと、スレイブと人間の関係と差はないと思う。ま、アニマってのは元々、男の勝手な願望が具現化したもんじゃないかな、って私は疑ってるけど。見た目はもちろん、性格も主人に対し過度に甘かったり優しかったり……まるで蜂蜜をかけすぎたパンケーキみたいな」
「エクスが俺にそこまで優しかった記憶はないんだが」
さりげなくブレイが言葉を挟むも、エクスは両耳を手でふさぐようなポーズを取ってマリアを微笑させた。
だが春の木漏れ日のようなマリアの微笑は、現れたと同時に消えてしまった。マリアはつぶやいたのだ。
「スレイブとアニマが近い存在だとすれば、本機も理想像だったのでしょうか……誰かの」
と。
水色の瞳が陰る。
(そうか……この子にはいないのよね……仕えるべき【主人】が)
エクスは、マリアの哀しみを理解できた。憎まれ口を叩くこともあるが、仮にブレイがある日目を覚まさなくなったとしたら、自分は自分の存在意義をどこに見つければいいのか――。
「でも覚えてて、私たちには意思がある。誰かのためだけに生きる必要はないはずよ」
エクスが明るく告げたのは、自分自身への呼びかけでもあった。
「だから貴女も、せっかく可愛い見た目してるんだから魅力をもっと磨かなきゃダメ。スレイブもアニマもそこは変わらないわ」
「そうですね。その一歩になるかもしれませんね、今日の外出は」
マリアの声に張りが戻った。それでいい、とエクスは思う。
(……二度と会えない主に縛られるぐらいなら、記憶を失ったままの方がこの子にとって幸せなのかしらね)
エクスとマリアのやりとりを眺めながら、ブレイは心の奥から沸き上がるある想いにとらわれていた。
妙な感覚だった。ものすごく大事な存在が、頭の中に引っかかってるとでもいうかのような。
「……って、いかんいかん。仕事せねば!」
形にならぬながら頭をかすめた記憶、過去から受け継がれ、ブレイのDNAに刻み込まれたものは、ごくわずか蛍火のように灯ったものの、すぐにその姿を消してしまった。
●
「マリアと申します、はじめまして」
深々と頭を下げたマリアを目にしても、『エルマータ・フルテ』はまだ落ち着かない気持ちであった。
「えっと、マリアちゃん……トレジャーアイランドで見つけた、あの子だよね」
ピラミッド内で千年の眠りにまどろんでいた少女、それがマリアだ。
そのマリアが歩いて話しているという事実、さらに、今から自分と行動をともにしようとしているという状況が、エルマータにはどうしても、現実のようには思えないのだ。
初見時の薄衣の印象が強いこともあるだろう。レーヴァティン軍のフライトジャケットを着たマリアの姿は、間違った衣装をあてがわれた着せ替え人形のように見えてしまう。
薄めに溶いたカフェオレ色の肌、光沢のある黄金の髪、くっきり目鼻立ちの整った顔立ち、その特徴だけをとらえると作り物めいた容貌だが、マリアに近寄りがたい雰囲気はなかった。エルマータより頭一つは小柄なうえに、やや垂れ目で、不思議な愛嬌が感じられるからだろうか。
強いて言えばヒューマンに似ているものの、実際は同じではない。マリアはその表情によって、12歳のようにも16歳のようにも見える。
緊張しているのはマリアも同じだろう、そう思い直してなるだけフレンドリーに、エルマータは彼女に呼びかけた。
「マリアちゃん、もう外に出ていいんだってね。よかった……って、そう言えば挨拶もまだだったっけ。あの時はバタバタしてたし……」
と手を差し出して笑みかける。
「自己紹介、必要だよね。あたしはエルマータ・フルテ。こっちはアニマのアル。よろしくね!」
マリアがエルマータの手を取ると、
「ボクもよろしくね」
アニマの『アル』もこれにならった。マリアはとっさにアルの手を握ろうとして、それができないことに気がついて動きを止める。けれどもアルは自分から、マリアの手に自身の手の像を重ねた。
「大丈夫」
狼のような耳をぺこんと垂れてアルは言う。
「たとえ実際に触れることがなくっても、ボクは確かに『存在』しているから」
「そうですね」
マリアはほっとしたように微笑を返す。
「よろしくお願い申し上げます、今日は一日」
「じゃあ行こうか。マリアちゃんって、しばらくドームの中から出れなかったみたいだし……退屈してたんじゃないかな。そう思って」
エルマータが片手を上げると、空からゆっくり、オートバイに似た流線型の乗用機械が降下してきた。馬のギャロップのようなエンジン音が心地いい。マシンの操縦はアルが行っている。
マリアは声を上げた。
「【エスバイロ】ですね?」
よほど楽しみにしていたらしくその目は、初めてゾウを見た子どものごとく輝いていた。
「うん。千年前って言われてもピンと来ないけど……少なくとも、マリアちゃんの時代には、エスバイロみたいなのはなかったんじゃないかな?」
「ええ、ええ、まったく記憶にありません。ドーム内の映像記録は拝見したことがありますが、実物を目の当たりにするのはこれが初めてです」
口調が弾んでいる。エルマータも昂揚を感じながら、
「せっかくだから、千年前になかったものを経験させてあげようと思うんだ」
と告げてエスバイロにまたがり、額のゴーグルを目元に下ろしたのである。
「マリアちゃん……空、飛んでみたくない?」
●
生まれたときにはもうエスバイロがあったエルマータからすれば、マリアの反応は実に新鮮だ。
「飛んだっ……飛びました!」
はじめての浮遊感がくすぐったいのか、その言葉尻も浮かび気味である。反面、怖いとも思っているようで、マリアはエルマータの腰に回した手を、がっちりとホールドして離さない。
それもそのはずだ。上昇とともにマリアのいたドームは遠ざかり、またたく間にマッシュルーム程度の大きさになったのだから。
「じゃあ、辺境空域あたりを流してみようか」
「え? あ、ちょっと待っ……い、いえ、大丈夫です」
きゃあっ、と喜びと悲鳴がないまぜになったような声をマリアは上げる。冷たいような心地良いような、ひやっとした風がふたりの頬をひと撫でした。
このときエルマータ機の軌跡を追うように、三機のエスバイロがドーム後方より姿を見せている。
エルマータとマリアの姿が、雲に包まれて消えた。エスバイロ【レッドスプライトIV】のシートから『チュベローズ・ウォルプタス』は腰を浮かせかけるも、
「大丈夫です。おふたりの姿はちゃんと補足しています」
アニマの『ゲッカコウ』が妖精のように、彼女の側面に回って告げた。
「頼みますよ、ゲッカコウ。交通量が増してくれば、空でも仕掛けてくる可能性がありますから」
そのとき雲が左右に晴れ、チュベローズはふたたびマリアの背中を目にした。声は聞こえないが、かいま見えた横顔は笑顔のようだ。ほっとして座り直す。
「ぞろぞろと探索者を連れて歩いちゃ目立っちまう、ってのはわかるが」
チュベローズの隣に、『スターリー』がエスバイロを寄せる。黒い髪がはたはたと風になびいていた。
「スレイブの身と機密を守り通すにはちと探索者の数が足りないんじゃないのか?」
「それはわかります……」
チュベローズは答えた。
「ですが、メシア教団が動いているという疑いは確定情報ではありません。それに、ものものしい警護はマリアさんにとっても息苦しいと思います」
「ま、それも一理あるかもしれん。……いずれにせよ、こういったのは慣れている」
スターリーは言い残すと、マリアの左側面へ向け機体を旋回させた。
単身になると、スターリーはつぶやくように告げた。
「遺産、か」
(マリアさんのこと、ですか?)
なかば風に溶けたような、透き通った姿で『フォア』が出てきた。両腕を伸ばして胸の前で組んでいる。
スターリーは無感動な目でフォアを一瞥した。
「情報源として貴重だと思うか?」
(当然そう思います)
「しかしスレイブは、ヴァイレスに対抗できなかった旧い文明の遺産にすぎない。そこから得られる情報なんてな……」
いささか突き放した言い方に、フォアは悲しげな顔を見せた。
フォアの返事を待たず、「いや、待てよ」とスターリーはつぶやいた。
「例の【改変】の結果、旧文明がヴァイレスに有効打を与えた歴史になっていたとしたら……? マリアがこの世界を救う鍵になるってこともあり得るな。だとすれば」
フォアは顔を上げた。スターリーの言葉に、前向きなものを感じたのだろう。
「……とんでもねえ壊れ物を置いていきやがったな、千年前の連中は」
マリアを挟みスターリー機と左右対称の位置を飛ぶのは、『フィール・ジュノ』のエスバイロだ。防寒用のマントが揺れている。
その機首の位置、むすっとした表情で腕組みし、『アルフォリス』はフィールの横を浮いていた。
(情報漏れとはけしからん)
アルフォリスはプライベートモードだ。足も組んでいおりダルマのような体勢で、くるくると宙で回転していた。
まあまあ、となだめるようにフィールは応じた。
「情報が漏れてたって……いつものことだよね。ブロントヴァイレス襲撃のときにも、有名な高級将校さん? も実は……だったみたいだし」
(なにを言う。我が憤慨しているのはさようなことにではないわい)
「え?」
(漏らすものが間違っとる、と言いたいのじゃ! どうせ漏らすならフィールの情報を漏らすべきじゃろ! それも入浴シーンとか下着姿とか、露出度の高いものをのう。といっても漏洩するのはほんの『さわり』の部分、本編は有料サイトでどうぞ、と誘導する巧みな情報戦略! これが我と世間が求めているものであろうよ)
「なに断言してるのよ!? それいつもやってることじゃない!」
フィールはため息をついた。
「でもその戦略とやらは根本的に失敗してると思うなあ……今日は仕事があったからいいけど……このままじゃいつ、水と塩オンリーのご飯になるともしれない……泣ける……」
しかしこれを聞き流して、
(いつ世間に漏洩してもいいように、ポロリ不退転の覚悟でいたいものよのう)
などと、たいへんアルフォリスはマイペースなのだった。
●
青空のもと辺境を往復し終える頃には、マリアはすっかりくつろいでいた。
「素晴らしいですね、テクノロジーの発展というものは」
エルマータの腰に左腕を巻き付けたまま、右腕を伸ばす余裕も出ている。
「こうした技術が進歩したのですね、この千年で」
「うん。必要に迫られて、かもしれないけど」
答えながらエルマータは、マリアの口調にある特徴を見出している。
(彼女、言葉使いに変わった癖があるよね。スレイブの特徴なのかな?)
そっとアルが囁いた。プライベートモードだ。
小さくエルマータはうなずく。
本来の語調とは逆の順番で話しがち、という特徴がマリアの言葉使いにはあるのだ。
たとえばさきほどの、『こうした技術が進歩したのですね、この千年で』がそうだ。本来なら『この千年でこうした技術が進歩したのですね』であるところを、『この千年で』を付け加えるようにして逆に言う。『素晴らしいですね、テクノロジーの発展というものは』にしたって、『テクノロジーの発展というものは素晴らしいですね』と言うほうが簡単なはずだ。
千年前の文法なのだろうか。スレイブの口調パターンなのだろうか。
それともこれは、マリアに独特のものなのだろうか。考えながら話している? あるいは思考に言葉が追いついていない? ……少し気に留めておきたいとエルマータは思った。
やがて旅団が近づくにつれ、行き交うエスバイロの数も増え始めた。
「次は都心部を歩いてみない?」
とエルマータがエスバイロを着地させたときである。
「マリアさんたちは安全な場所へ!」
切り裂くような通信が飛び込んで来た。ゲッカコウを介したチュベローズの声だ。
「メシア教団!」
ふたりの着陸地点を包囲するように、四方からエスバイロが突っ込んで来たのだ。思い思いの扮装だったが、彼らは接近しながら装いを脱ぎ捨てていた。その下から現れたのは揃って黒装束、胸元や袖には三つ叉矛のごとき紋章、アビスを崇める邪教の印だ。【アビスメシア教団】あるいは【黒いメシア教団】と呼ばれる狂信者たちであることは見間違いようがなかった。
無関係の通行者やエスバイロはわっと逃げていった。無理もない。メシア教団は死の使いとイコールだ。テロリスト集団の代名詞なのである。
どこからか手榴弾が投じられた。間髪入れず爆発する。
直撃にはほど遠かったものの爆風はエルマータとマリアを、エスバイロごと押し流す。
「アルお願い!」
エルマータが呼びかけるまでもなかった。アルはマシンにシンクロし、コントロールを失った機体を瞬時にして立て直したのである。
だがエスバイロを体の一部のように乗りこなすエルマータは平気でも、乗るのは今日が初めてのマリアはそうもいかない。
あっ、と声を上げてマリアは後部座席から滑り落ちた。大きく機体が傾いたときだったので、幸いにも高さはせいぜい1メートルだ。腕から落ちてか細い悲鳴を上げた。
教団員の黒い姿が彼女に手をのばす。
だがその眼前で、鳶が兎をさらうようにマリアの体を抱き取った姿があった。
「やはり面倒事のお出ましか」
スターリーだった。とっさにエスバイロから飛び降り救ったのだ。まさしく電光石火、スターリーは黒い風のごとく、マリアを横抱きにして走り出す。彼の服装に怯えたかマリアはあらがうも、スターリーは彼女に言い聞かせた。
「安心しろ、味方だ。認めたくはないが、とっさに繰り出した、み~ら……いや、マジカルの奇蹟があったらしい」
このときスターリーが【み~らくるくる☆マジカル】と口にしかけたのは言うまでもない。
大人しくなったマリアを抱いたままスターリーは走る。
「フォア、エスバイロを回せ! チュベローズとフィールは援護を頼む! エルマータ、先導してくれ!」
「任せて!」
即応したのはフィールだ。数メートルの高度があることも意に介さず飛び降り、もうもうと粉塵上げてスターリーの背後に着地すると、両腕をひろげ狂気の魔法弾【やきい~れ☆デッドハント】を発動させた。
見よオラオラ度全開! うなりあげ飛んでくるのは釘バットだ! 有刺鉄線が巻かれ赤黒く、突き刺さった無数の釘は、無秩序に折れ曲がり錆びきっている! これ魔法か!? いや、だからこそ魔法なのだ!!
ぐしゃ。バットは教団員のエスバイロ前方に激突しめり込むと、団員ごとマシンをぶっ飛ばした。
決まった、と会心の笑みを見せるフィールだが、我が身を見てキャッと飛び上がった。
「なにこれ!? 今日の服、いつもと違う!?」
「ようやく気づいたかフィール、新しい服じゃ」
彼女によりそうように立ち、アルフォリスは呵々大笑している。
「いつの間に!?」
「通販じゃ。おニューの衣装は気分転換にもなろう?」
気分転換、と言うには少々過激なコスチュームであった。マントの下に隠れていたときは気がつかなかったが、スカートは大変に短く下着が見えそうで、胸元はハート型にくり抜かれている。はっきり言って、冬に着るには寒すぎた。
「通販? どこにそんなお金が……? 最近、食費にも事欠く有様なのに……」
「むしろ逆じゃな。服を優先したゆえ、しわよせがのう」
「うう……聞くんじゃなかった」
理不尽な怒りを教団への敵愾心へと昇華させ、フィールはさらなるバットを呼び寄せた。
チュベローズがいち早く敵の動きを察知できたのは、旅団が近づき人間が増えるに従って、彼女が監視対象をマリア自身から、周辺の人々へ変えたことにその理由があった。
相手がどのように巧みに変装をしていても、ターゲットであるマリアを視認してから行動するはず、そう考えたためだ。
以下、時間を少しさかのぼる。
「ゲッカコウ、マリアさんへの視線はどうですか? 殺気、とまではいかなくても不穏な気配を感じ取れないでしょうか?」
チュベローズが囁くと、ゲッカコウはプライベートモードのままうなずいた。
(どうやらその判断、正しかったようですね。少なからずあります)
ゲッカコウの言う通りだった。マリアもエルマータも特段に目立つ扮装をしていたわけでもないのに、いつの間にかふたりに集まる視線が増えていったのである。エスバイロ乗りにも、通行人にもそうした不審者はあった。いずれも一般人を装いながら、じわじわと包囲の話を狭めてくる。
上着に手をかける人間を見たとき、チュベローズは迷わず叫んだのである。
「マリアさんたちは安全な場所へ!」
そして現在、もちろんチュベローズも戦闘に身を投じている。
「いきますよ、ゲッカコウ」
(はい、チュベローズ様!)
人騎一体、暴れ馬のように、チュベローズはエスバイロごと敵のただなかに躍り込んだ。
チュベローズの戦ぶり、それは姫御前の舞いのように華麗、かつ猛獣の狩りのように苛烈である。利き手にすらりミドルソード、もう片方の手にはバックラー、刃の光冴え冴えと、閃く空斬ソニックエッジ、敵をけん制し銃弾も受け流し、隙を逃さず逆襲に移る。攻めに転じても縦横無尽、やまぬ五月雨のごとく小刻みに突いたかと思いきや、雷光一閃! デュエルブラッディの重い一刀を下すのだ!
チュベローズには誰も近寄れない。近寄ることは死にほかならないのだから。
叩き切られたエスバイロが火を噴いた。重傷を負った教団員が武器を落としのたうち回った。ある教団員などはエスバイロの制御を失い、悲痛な叫びとともにアビスへ転げ落ちていった。
スターリーはマリアを抱えたままだ。
それにしても、と彼は思う。
手を引いて走るのに限界があるからって、マリアをお姫様抱っこする事になるとは思わなかったな。
「案外重いな……いや、魔法生物だってことを考えると軽いのか?」
思わず言葉が口をついている。
「すみません、重くて……」
恥ずかしいのか恐れているのか、マリアは両手で顔を覆った。
そんな彼女に頓着せず、スターリーはなおも言うのである。。
「その点アニマは良いよな、手を引くどころか何もしなくても常にそばにいるんだからな」
するとそれまで、(あと20メートル走って!)(三時の方向! 気をつけて!)としきりにスターリーに案内していたフォアの声がはたとやんだのである。
「おいフォア、ナビゲートの続きはどうした」
スターリーが見上げると、やや上方にフォアが浮いているのが見えた。ところが彼女は機嫌でも損ねたのか、彼に背を向けているではないか。
「何か問題が……いや、俺が気に障る事でも言ったか?」
(さあ、どうでしょう)
とフォアは言うも、その声には不機嫌さがにじみ出ていた。しかしスターリーがその理由を聞く前に、
「こっちよ!」
エルマータのエスバイロが眼前に着地し、マリアの身を受け取ったのだった。
「警護班の皆さん、任せるよ! メデナへの報告はあたしがやっとくから、戦闘に専念して!」
エルマータはそのまま急発進した。
「ああ、頼む」
スターリーは振り返って、フォアに話しかけるべきかチュベローズたちを手伝いに行くべきか、コンマ2秒だけ迷った。
アルフォリスは両手を口元にあてメガホン状にして、フィールではなく敵に発破をかける。
「モブども! 胸元でもスカートでも切り裂いて、中身のポロリくらいさせんか! 元々お主らの価値はそれだけしかないじゃろうが!」
「なんで教団を応援してるのよ~っ!」
フィールは涙目だ。なぜってアルフォリスが叫ぶたび、敵の目が集まるのだから。
「なにを言う! こうやってフィールへの視線を集めてやっているのじゃ! 男の本能、女の嫉妬を刺激してこそ一人前のグラビアアイドルというもの!」
「グラビアアイドルじゃなーい!」
少なくとも今は、と涙目でフィールは声を上げた。
メシア教団員最後の一人を、チュベローズは組み伏せて喉元に剣を突きつけた。
「なぜマリアさんを狙ったのですか? 答えなさい!」
団員は若い男だった。少年の面影がある。チュベローズより年下かもしれない。
だが少年は、刃を見ても動じなかった。
「虚無(アビス)は救い、救いは死……」
とつぶやくやグッと奥歯を噛みしめ、ぞっとするような笑みを浮かべたのである。
「まさか……!」
チュベローズは指を少年の口に突っ込んだがすでに手遅れだった。少年の口から、血の混じった赤い泡があふれる。濁った黄色い目の瞳孔は開ききっていた。
(服毒自殺……チュベローズ様、彼は……)
ゲッカコウはうなだれた。少年は歯に、毒の入ったカプセルでも仕込んでいたものと思われた。
「悲しすぎます……こんなこと……」
チュベローズは少年の瞼に触れ、これを閉じさせた。
立ち上がって振り向くと、無力化させた他の教団員も動かなくなっている。同じ方法で命を絶ったのだろう。
チュベローズはゲッカコウを通し、アニマ通信でマリアに呼びかけた。
「マリアさん安心してください、襲撃者は私たちが撃退しました」
「私たちがいればマリアさんへ危険が降りかかることはありません」
ゲッカコウも言い加えている。
「ゲッカコウ、引き続き警戒を。彼女は必ず守り通します」
「はい、チュベローズ様。チュベローズ様もご無理をされないようお気をつけください」
チュベローズは刀を拭って鞘に戻した。
金属の擦れあう小さな音が冬空に響いた。
●
エルマータから『七枷陣』が役割を引き継いだ。
「大変な目にあったみたいだねぇ。怪我なくて良かったよ」
緊張した面持ちでマリアは陣を見上げる。
「あの、うかがっていましたでしょうか? お名前」
「おっと、これはうっかりしてたなぁ」
あっはっは、と陣は笑った。
「おじさんは七枷陣って言うんだ。仕事はハッカー、もうちょっとくだけた言い方で言やぁ『情報屋』ってやつさ。古代のことは判らないけど、きっと千年前にもそういう職業ってあったと思うよ」
「マスター、一方的にしゃべりすぎです。マリア様がフリーズされています」
陣のアニマ『クラン・D・マナ』が冷静に告げた。たしかにマリアは、あっけにとられたような表情で陣を見上げている。
「こりゃ失礼。おじさん、これでなかなか人見知りでねぇ。どうしても初対面の人を前にするとあがってしまって言葉が多くなるんだなぁ。あ、でも正確に言えば、お前さんと会うのはこれが二度目になるんだよねぇ。発見したとき以来の……そういやあのピラミッド」
「マスター、また一方的にしゃべりすぎてます」
「う、本当に失礼」
目を白黒させる陣にかわって、クランがマリアの前に出た。
「マスターの言動が限りなく不審者のソレに近いものがありますが、お許しください。緊張しているのも、そのせいで多弁になっているのも嘘ではありませんので」
「不審者なんて……いえそんな」
マリアが手を振ったタイミングで陣も乗じた。
「そうだ、せめて『ヘンなおじさん』にしてほしい」
「変な……っ」
その言い方が面白かったのか、マリアはぷっと吹きだす。表情もいささかゆるんだようだ。
「初めまして、クラン・D・マナと申します。クランでもマナでもマナマナでもお好きなようにお呼び下さい。でも監禁趣味はありませんから」
これを聞き違えて、
「換金? 換えるのですか? お金に」
マリアは首をかしげた。するとクランはまったく表情を崩さず言う。
「はい。コイツハ上玉ダ、高ク売レルゼー」
「ええっ! 本当に!?」
ぞくと身を震わせるマリアに、やはりにこりともせずクランは言った。
「ジョークです」
マリアは、こけた。
こうして三人は、珍妙なトリオとなり商業施設に入ったのだった。
口調も見た目も無愛想だが、質問に丁寧に答えるクランに、マリアは親しみを覚えたらしい。
「なんでしょう、あれは?」
「意味を教えて下さい、あの看板の」
「何を売っているのですか? あの店」
矢継早にクランに問いを発しつつ、彼女と肩を並べて歩く。
後ろから、マリアとクランを交互に見比べつつ陣は思った。
(あのクランに世話焼きの面があったとはね)
意外な発見だった。陣にとってクランは、情け容赦のないツッコミ役だが、それも彼女の『世話焼き』行動なのかもしれない。
(ん~、しかし)
情報屋として陣には、惜しいという気持ちあった。
(縁もゆかりもなけりゃ、この子の情報をいつものようにハックして方々へ売り流すんだけどねぇ。まあ、ピラミッドでのよしみもあるしそうもいくまいか……)
図らずも『換金?』というマリアの発言は当たらずとも遠からずだったというわけだ。
そろそろ陽が落ちる、というタイミングで陣は告げた。
「では最後はおじさんがご飯をおごってあげよう!」
「食事という意味ですか?」
「そうだよ。クランのことなら心配無用だ。たいていの飲食店には、アニマ用の席もあるしアニマ用に映像データが提供されるから。なじみのレストランへ行こうか」
「マスター、『なじみのレストラン』ではなく『いつもの居酒屋』でしょう」
クランが冷めた目で言った。
「おじさんの辞書では両者は同じ意味なの!」
今日はずっと旺盛な好奇心を示していたマリアである。喜んで応ずかと思いきや、
「……従います」
と、なぜか元気のない様子で告げた。
チェーン系の居酒屋だ。早い時間帯だというのに店はほぼ満員で、グラスがぶつかりあう音が賑々しい。
人間用の椅子が二つ、アニマ用に二つ、計四席のテーブルに案内される。
「店の人には、アニマを連れた人間に見えているのでしょうね。本機も」
空席を見つめながらマリアが言った。さっきからずっとこの様子だ。
「マスター、スレイブは食事の必要がないということです」
クランが告げたので、陣はようやく理解した。
「食事の必要がない? それはもったいない!」
「摂取だけならできます、機能上。ですが経験はありません」
すると陣は明るく言ったのである。
「そうか……おじさんたちは不便にできてるんだ。嬉しいことが、あっても悲しいことがあっても、どんな時でも腹は減るんだからなぁ」
「でもそこが良いところ、ですよね。マスター」
クランが静かに口を挟んだ。言いたいこと先に言われた、と陣は頭をかいて、
「その通り。マリア、お前さんも味はわかるんだろう?」
「ええ、好みは特にありませんが」
「だったら試してみようや、色々さ。美味いもの飲んで食ってして、う~んこいつのため生きてる! って思えるのは幸せなんだぜ? 必要性がなくても、食事は生きる彩りになるってわけさ……おっと、またおじさんしゃべりすぎてる?」
マリアは首を振った。いつの間にか、笑みが戻っている。
「彩り……素敵な言葉ですね」
色々なものがあるのが居酒屋の良さだ。こうしてテーブルの上には、甘い物、辛い物、酸っぱい物など、さまざま料理が並んだのである。
「いただきます」
パンと陣は手を合わせた。クランも。
見様見真似でマリアもならった。
●
迎えに来たトゥルーソウターは、マリアを見てつぶやいた。
「色々あったけど、おおむね楽しい一日だったんじゃないでしょうか」
すでに彼女は、テーブルに突っ伏して寝息を立てているのだった。
こうして、フラジャイルのマリアにとっての初外出は幕を下ろしたのである。
依頼結果